ロマネコンティ物語

小さな小さなぶどう畑の、 2000年をこえる、ワインづくりの神秘。コート・ド・ニュイの中心「ニュイの真珠」ヴォー・ロマネ村。この村には6つのグラン クリュ畑があり、そのすべてがブルゴーニュきっての極上品 。

この村には「ニュイの真珠」ヴォー・ロマネ村6つのグラン クリュ畑がある。

ラ・ターシュリシュブール
ラ・ロマネ
ロマネ・サン・ヴィヴァン、
グラン クリュ
グラ ン・ド・リュ―。
ロマネ・コンティは、この5つの宝石がくるりと取り巻く。5つの宝石のすべての美質をあわせ持つのは ロマネ・コンティだけ
ロマネコンティの畑は東にも傾斜しているので朝日をどの畑よりも享受。
どこよりも地底の構造が複雑で養分もヴァラエティに富んでいる。ぶどうの樹は10m以上の深さまで根 を張りめぐらす。その根が土を耕し、数十年もたつと土の組成そのものが変わってしまう。小さな根が各自自前の斧を持って耕しているようなもの。ロマネ・コンティの畑こそまさに「根による深耕」を2000年以上にもわたって続けてきた特 別な土地。正直にいうと隣の畑と私には全然区別がつかなかった。

かのフランス全土に襲い葡萄を壊滅寸前まで追いつめたフィロスキアの害。その折りもけしてアメリカの樹の接ぎ木をすることなく純粋性を守り抜いた。フランスの葡萄の木は殆どアメリカ種とのハーフなのに。 かつてローマ人が目をつけた優れた土壌と気候を、幾十世代にわたるぶどう栽培家達の手 が完璧なものにつくり変えた。何より感心するのは南傾の地形。『神に祝福された土地 』とニックネームがある。ディジョンからリヨンに至る帯状の土地が太陽光を効率よく吸収できる万全の構造。いわばこの土地には時と自然と人の作用が協力しあったのだ。ロマネコンティの樹自体はやがて老衰があるだろう。その神話の後光に包まれた名声は老いることはない。

神話の誕生
ロマネ・コンティのワインは、10世紀初頭以来、この畑はサン・ヴィヴァン 修道院のもとで耕された。18世紀初頭には、ルイ14世の侍医ファゴンが胃腸薬として毎日スプーン数杯の ロマネ・コンティを処方。まあこの侍医はブルゴーニュ生まれのせいで地元の酒を勧めたかも。全くこのような侍医で太陽王が77才生きられたのは奇跡。ルイ15世時代、ぶどう畑の所有をめぐって王の寵姫ポンパドール 夫人とvsブルボン王朝の大貴族コンティ公爵の間で争奪合戦が行われた。王の宰相vs寵姫の争いは1760年、ルイ15世は愛妾にデレデレだったにもかかわらずこのときは公正を保ったのは立派だ.この勝負はコン ティ公爵の側に軍配があがった。ポンパドール夫人はいたく立腹。
以後ヴェルサイユの宴席からブルゴー ニュワインを閉め出した。王は寵姫のいいなりだった。 一方コンティ公爵は、このぶどう園のワインをす べて自家用に切りかえた。以後このワインは、コンティ公宮殿でしか飲めない 秘酒ロマネ・コンティの名声は広まった。コンティ公爵 が芸術文化の世界の最大パトロンだったことも名声を高める要因となった。競馬場で有名な堀をめぐらした美しい居城 シャンティイ コン ティ公宮殿。この名城を訪れた客は、哲学者のルソー、百科全書のディドロ、劇作家ボーマルシェは ワインを傾けながら『フィガロの結婚』の想を練ったにちがいない。あのモーツァルトもパリを訪れた際には公爵家で演奏。こうして1789年、フランス革命で貴族の荘園がすべて没収されあらゆる「旧体制」が全面否定さ れた。その際にも、「ロマネ・コンティ」の名前だけは敬意とともに残された。革命後 ブルゴーニュの多くの畑は競売と遺産相続で細分化され土地の所有形態はモザイク状になった。ロマネ・コンティ のぶどう園を分割しようとする不届き者は一度も現われなかった。ローマ時代から続く単独所有畑 (モノポール)としての名声が途絶えることはなかった。革命も、戦争も、この輝く葡萄畑を通り過ぎただけ。

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