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運転手さんとは待ち合わせ場所を打ち合わせ息子と夫で組み私は娘と街をそぞろ歩きした。昼食は知人からすすめられたヨウジという韓国と日本料理店にした。なんと★つきの店だった。 | |
| 歴史 | ||
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紀元前4世紀ころからすでに発達。ローマの植民都市ともなった。一時期プロヴァンス王国の首都だった。 |
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ミラボー通り(CoursMirabeau)。![]() |
最も賑やかなのは旧市街を東西に貫く樹齢を重ねたプラタナスが生い茂り穏やかな木陰に縁取られた通り。西端にはロトンド(Rotond)と呼ぶ広場があり、有名なカフェLes Deux Garsonsもこの辺り。 サンソーヴール大聖堂グラネ美術館(MuseeGranet)は最大級の美術館。セザンヌの生家は旧市街を外れなので行かなかった。近代絵画の父の家をパスするのはとても失礼なことだ。 |
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| 泉の街 | ||
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エクスはローマ時代より「水の都」あるいは温泉地、町の至る所に噴水がある。水不足で有名な南仏では異例中の異例。アルベルタ広場(Place d'Arbertas)の噴水etc.「四頭のイルカの噴水(Fontaine des Quatre Dauphines)が可愛い。有名な噴水だけでも17ヶ所もある。 |
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| エックス・アン・プロヴァンスは「近代絵画の父」と称される画家ポール・セザンヌの生地としても知られる。フランス革命の立て役者ミラボー伯の縁の地でもある。 | ||
| ポールセザンヌの生涯 | ||
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1839年1月19日 誕生、帽子製造商長男として、ポール・セザンヌ生まれる。彼が9歳の頃 |
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セザンヌが生涯画のモティーフにした。いろんな所から見える。彼の目にはこういう風にこの山は映る。 | |
| ミラボーの生涯 | オノレィ=ガブリエル=ヴィクトール・リケッティ、ミラボー伯 爵 | |
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立憲派の政治家。ミラボー侯爵の五男として出生、3歳の時に罹った天然痘であばただらけになった。代々美貌の家系の父親は、「悪魔の申し子のように醜い」と落胆。16歳で騎兵隊中尉に任官した が数ヵ月でやめたのを皮切りに、放蕩と浪費癖の無頼漢。常に借金を友人生を歩むことになる。持参金めあてに結婚し失敗。人妻の侯爵夫人 ソフィーと不倫駈け落ちがてら外国に亡命した。77年に捕らわれて、約三年間ヴァン センヌに投獄される。のちに妻との離婚訴訟で雄弁をふるって人々を感嘆させる。このころ「専制君主論」や「ソフィーへの手紙」を著し、84年か ら翌年までロンドンに滞在。このため英国王室に倣った君主制を温存した革命を夢見ていた。フランス革命の発端 となった三部会に貴族であったが議席を置く。マルセイユとエクス=アン=プロヴァンス の両方の地区で選出され、後者の第三身分代表として会議に臨みこの美しい通りに光栄にも名を残すことになる。雄弁と政治的 才能で名声を博し急進派に転じる以前のジャコバン・クラブのリーダー。つい で国民議会議長となった。たったの2週間在任後青年時代の放蕩生活と議会での激務で体 調を崩し91年4月2日に病没。国民は深く悲しみ葬儀も盛大パンテオンに葬られた遺体第1号になった 「八月十日事件」のおり、革命派への裏切りを実証 する書類がチュイルリー宮殿から発見されたため、国民公会の命令で遺体はパン テオンから除去された。醜い容貌ながら生涯艶聞が耐えなかった。外見で判断せずマリーアントワネットがミラボー伯の進言に少しでも耳を傾けていたら,歴史はまた違った展開をしていただろう |
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このミラボー通りの古いcafeで息子と夫と待ち合わせた。次のマルセイユで運転手さんと別れる。長期滞在したい街だ。
Les Deux Garsons |
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