失われた時を求めて誕生まで
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失われた時を求めて』20世紀を代表する長編小説のひとつ。1913~27年の刊行.ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と並び称される作品である。プルーストは1908年頃から「サント=ブーヴに反論する」という評論を書き出した(生前は未発表)。徐々に構想が広がり小説になっていった。騒音を遮るためコルク張りにした部屋に閉じこもって書き続け、1912年に作品の一部分を発表。出版社を探すが長過ぎると断られ、1913年に第1編を自費出版した。アンドレジードは『プルーストは社交界出身のアマチアに過ぎない』と出版を断った。当初3巻の予定がさらに長大化。1919年第2編を刊行し、ゴンクール賞を受賞。第4編まで完成したところで死去(1922年)。第5編以降は遺稿を整理したもの。1927年に第7編が刊行されようやく完結した。 |
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| プルースト的過去への往還 | |||||||||||||||
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時間という概念が人間が明確に意識したのは鉄道の登場と時刻表。初めて分という単位を意識するようになった。プルーストは独自の時間解釈 物理的時間。。。記憶と時間の問題をめぐり考察を続けた。単に過去から未来への直線的な時間や計測できる時間。円環的時間さながらロンドのように現在に戻ってきて今の時を見出し円熟する時間。。。プルースト独自の時間解釈。「現実は記憶の中に作られる」という独自見解を提起。20世紀の哲学者たちの時間解釈に大きな刺激を与えた。プルーストは哲学者アンリベルグソンのパリ大学での講義を受講している。ベルグソンの時間の持統という解釈に深く傾倒しているに違いない。 時間は流れず、雪のように重なる。 |
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| 言葉の大伽藍 | |||||||||||||||
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マルセル・プルーストは、ラスキンにならって初めてこの大聖堂を訪れた時の 『黄金の聖母』の微笑を次のようにように記している 「よく晴れ上がった一日。。。。私が着いたのはまさに太陽が聖母を訪れる時刻であり、数世紀を経た聖母の微笑は太陽のつかの間の愛撫に向けられているように思われた。」 アミアンはまたプルーストがラスキンに導かれた土地でもあった。「ラスキンの作品『アミアンの聖堂』マルセル・プルーストの翻訳と序文についての報告」(1904年)という文章を書いた。 そしてプルーストは後年文字で造り上げた大聖堂『失われたときを求めて』を書いた。 |
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アミアン大聖堂
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| ノートルダム大聖堂 CATHEDRALE NOTRE-DAME 1220年に着工、68年で完成した大聖堂はフランス最大の大きさで、パリのノートルダム寺院の2倍にあたる。ランセット・ゴシック様式の建物はユネスコの世界遺産に指定さた。 |
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| ジョン・ラスキン(1819年〜1900年) | |||||||||||||||
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プルーストの美術観に深い影響を与えた英国の美術批評家。ラファイエル前期の絵画を紹介した。プルーストはラスキンの著作を手引きにして各地の寺院をめぐった。その経済倫理学の翻訳も英語に堪能な母ジャンヌの助けを借りて引き受けた。この肖像画の傑作はスコットランドでの旅で画家ミレーに描かせたもの。その後妻エフィーはミレーの妻になった。 | ||||||||||||||
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ヴェネツィア
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1900年のラスキンの悲劇的な死の後、プルーストは彼の魂に導かれたかのようにヴェネツィアに旅立った。フランス人のヴェネツィアへの関心が増したのは19世紀の事。この地を治めた歴代の元首ド−ジェの街を西洋と東洋様々な要素の交じりあう不思議空間として多くのフランス人を魅了した。“地がどこで終わるのか分からない、水がどこから始まるのかも。”と 失われた時を求めて”の中でエルスティールはアルベルティ−ヌに言わせている。 ヴェネツィアはまた快楽都市であり爛熟と頽廃の世紀末の匂いも持っていた。 | ||||||||||||||
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プルーストとリッツ
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1907年7月1日プルーストはリッツホテルでフィガロ紙のガストンカルマールを主賓に歴史に残る大パーティを開く。母の死から2年ほど過ぎてのこと。 赤と金で彩る会場。フォーレの演奏を予定していたが 前日キャンセル急遽リスレが演奏を勤めた。ワインリストは友人のアルマンギッシュが選んだ。ベートーベン、プルーストが好んだフォレの作品、ワーグナー、。。。ショパンを演奏している。 彼は見るべきものを全て見るかのようにサロンを行脚もした。1917年の7月にはジャンコクトーやス−ゾ公女とポールモーランとここで会食している。リッツとプルーストの縁は彼の死の直前まで続いた。 |
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運転手アゴスティネリ
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30代のプルーストを襲った悲劇は彼の最大の理解者で保護者母ジャンヌの死だった。プルーストの悲嘆は底なしの淵に落ちたようだった。このあと母との約束でサナトリウム療養に入った。読書や運転手アゴスチネリによる自動車寺院巡りか、やっと着手した自伝の執筆だった。アゴスチネリには1室を与え彼の関心を引くため飛行機まで贈ろうとする。彼との仲を決定的に裂いたのは飛行機だった。彼は恋人の勧めで南仏アンティーブの飛行機学校に入学。1913年 アルフレッド・アゴスチネリがニース近辺の海で飛行機訓練の途中墜落して死亡。彼はアルベルティーヌとしてプルスートの小説のなかで永遠の生命を得る。 |
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失われた時
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| 男色で英国で逮捕された後オスカー・ワイルドはパリに滞在した。この頃20歳前後から、プルーストは自身の内なる男色に目覚めたのである。22歳のとき審美倒錯詩人かつ男色伯爵でもあった38歳のロベール・ド・モンテスキューを知り、異常に惹かれていく。プルーストが創作した倒錯者シャルリュス男爵のモデルである。ソドムとゴモラのモチーフとなるのは彼自身の内面生活だった。まともな仕事につくきにならず文学や芸術のみに関心をそそられて早くから習作をくり返している.高等遊民的生活のなかで何を題材にして自分の芸術をつくるのか?彼はそれを長いこと模索しながら短編や詩を書き翻訳や評論を試みる。時代はベルエポック期の華やぎのうちにあり一方で社交の楽しみに溺れ時を失っていく。 | |||||||||||||||
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見いだされた時
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| 彼が見出したのはそうした自分自身の探求心の旅を小説化することであった。彼はそのコルク貼りの密室に閉じこもって小説の創造に取り組む。それから十四年ついに力尽きて燃え尽き遂に完成目前で死を迎える。 | |||||||||||||||
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プルーストという大樹
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しかしこの未完の大作がその後の小説の歴史を一変させた。20世紀の小説の多くの実験や前衛的な試みはことごとくプルーストの大樹の樹液を吸収してそこから枝葉となって生み出されることになる。すべてはプルーストからはじまった。
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プルーストの文体
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| プルーストの文章は回りくどくて述語を見つけるのに一苦労。だが文体は明晰すぎるほど明晰である。『失われた時を求めて』はシャトーブリアンにはじまる19世紀の芸術的な文語文の探求に終止符をうつ作品であるとされる。一方この小説は普通の黙読によらず音読したときに最大の効果が得られるようにつくられている。リズムや息継ぎを大事にしている。 |
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時代背景
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| 歴史的に見ると、普仏戦争終結にともなう第二帝政崩壊時のパリ・コミューンのさなかに生まれ、第三共和政とともに育ち、世紀末に青春を送り、所謂ベル・エポックを生き、第一次世界大戦を経験して両大戦間に没した、ということになる。20世紀の人間のように捉えられがちであるが、プルーストは20世紀の開拓者というよりも、むしろ19世紀の遺産相続人という面が強い。 | |||||||||||||||
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写真家プルースト
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| この時代の最先端の表現媒体は写真である。彼はナダールやゾラと並ぶ優れた表現者だ。プルースト博物館の膨大な彼の写真の展示を見て回るだけで彼の生きた世紀末や20世紀初頭の風物が輪切り?にされているようで飽きない。 | |||||||||||||||
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プルーストの万年筆
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プルーストの芸術観
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| フランスにおいては、文学的には19世紀前半はロマン主義を中心とし、後半は、高踏派、写実主義や自然主義、象徴主義などが混在した。美術では官展つまりサロンを中心として新古典主義の流れをくむアカデミスムの画壇が存在し、他方最初はそれに対立する形でロマン主義、写実主義、印象主義、象徴主義、後期印象主義など前衛的な流派が続々誕生。あるものはサロンに吸収されたり統廃合された。こういう時代の潮流に生きたプルーストの絵画観プルースト自身がそうした流派に身を投じたり、ある流派のプロパガンダを行ったということではない。プルーストはそうしたまさに百花繚乱の思潮の相違というものは「芸術」にとって本質的なものではない。。。とプルーストは語っている。プルーストはまた『むき出しの思想は値札のついたままの商品のようなものだ』と批判。あらわな主義や流派などに対して距離を置いていた。 | |||||||||||||||
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セレストアルバレ
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プルーストに永年仕え執筆も手伝いその死も看取ったセレスト・アルバレ。彼女の回想録「ムッシュー・プルースト」でプルーストの同性愛嗜好について否定されている。 | ||||||||||||||