Eugenia Maria de Montijo de Guzman 1826年〜1920年 

1887年のフランス王室の宝石の放出で人気をよんだのはナポレオン3世の妃のカルティエ(創業は1847年)に作らせた宝石達。 多くはインドのマハラジャが買った。第2帝政当時のファッションリーダーはウージェニー皇妃。美しい皇妃のもと 世界の社交の中心はパリ。皇后の衣装は2ヶ月後には早くも大西洋を渡りアメリカでコピー。外国でもウジェニーの人形が売られていた。大抵気前良く肩を出したファッション。
生い立ち
スペインの大貴族モンティホティバ伯爵の次女。1800年父はアメリカ総領事としてマラガに赴任。モンテッホ公は二人の娘(姉パーカ)をパリに送り教育した。公はウジェニー13歳のとき死去。ウジェニーは父から激しい情熱や冒険心を受け継ぎ更に冷静な金銭感覚も躾けられた。このためウジェニーは長い長い晩年を異国で暮らしても経済的に困ることはなかった。
母マヌエラ

Maria Manuela Kirkpatrick

母Maria Manuela Kirkpatrickはスコットランドとベルギーの混血。マヌエラは社交好きで奔放な性格で様々な文化人が集まるサロンを開いた。若き日のスタンダールや『カルメン』の原作者プロスペル・メリメと意気投合。程なくしてメリメはマヌエラの愛人になった。アレキサンドルヂュマフィスとも交流があった。この二人の文学者はナポレオン3世との結婚に向けてウジェーヌの恋文など指導した。ナポレオン3世はこの作家とマヌエラのチーム?を前にしてウジェーヌを愛人でなく正妻にと方向転換した。母はウジェニーが21歳の頃スペイン皇太后の女官長になる。2人の娘に亡夫の称号を継がせ、ウジェニーには大称号であるテバ伯爵夫人の称号を贈与。従兄弟にスエズ運河を造ったレセップスがいる。
ナポレオン3世妃
ルイは自らの意志でウジェーニを選ぶ。新興王家の妃にはヨーロッパの王侯クラスを薦める側近たちの反対を押切った。側近や旧勢力は渋い顔だが国民は皇帝の『恋愛結婚』に好意的だった。出会いはマチルド皇女のサロン。白い肌と丸出しの肩に滅法弱かった皇帝は『おいしそうなクリームケーキを置かれた子供さながらだった』とか。ウジェニーは語学の達人乗馬の名手。裸馬で全力疾走する姿に皇帝がぞっこん。1853年ノートルダム寺院で結婚。新郎は45才花嫁は26才。彼女はスペイン人のつねで熱心なカトリック教徒。メダルのように完璧な横顔でなで肩の素晴らしい美人。色の白さを強調するため黒い絹のサテンのシーツに全裸で寝たとか。。そんな彼女の努力にも関わらず夫は歴代フランス支配者のなかでも抜きん出た漁色家。ウジェー二ーは皇帝の浮気を時には目撃しスペイン国境近くのピュアリッツの宮殿に立て籠ることもしばしば。王家の出でないこととスペイン人であることは時に国民との間に溝もできた。が皇帝と二人で世界で最も華やかなフランス宮廷を築いた。『彼女は頭が悪く殆ど何も知らなかったがその僅かな知識を4カ国語で伝えることができた。』という 説もある。1856年には息子ナポレオン・ルイにも恵まれた。
結婚当日の珍事
式典を無事に終えた夫妻は式場ノートルダム大聖堂から最初の一夜をサン・クルー離宮で過ごす予定だった。しかしここで事件が起きた。皇帝のロンドン以来の愛人でこの離宮のアパルトマンに住まわせていたミス・ハワードが立ち退きを拒否。彼女は、英国で夫と離婚して莫大な資産を手にしナポレオン3世誕生まで経済的に支え続けた功労者。当然ミス・ハワードはこの仕打ちには納得いかず、頑として離宮立ち退きを拒否し続けた。結局新婚夫妻はサン・クルーの庭園のはずれにある暖房もない小屋で、結婚第1日目の夜を過ごした。1月末のパリだからさぞや寒かっただろう。これ以降もウジェニーは次々と夫の浮気に悩まされる事になった。
パリ万博の華
ナポレオン3世の狙いは、国民の間に蘇った偉大なる帝国という陶酔と熱狂が冷めない ようにすること。そのためのイベントこそが、後に開く万博だった。この万博はまたウジェニーを世界の檜舞台に押し出した。パリ万博のときオーストリアのエリザベート皇后と世紀末の美女の座を庶民は勝手に競うが聡明さと言う点でエリザベートに軍配が上がった。ヨーロッパ各王室に孫を送り込んだゴッドマザーヴィクトリア女王に大変気に入られた。この英国王室との関係良好がクリミア戦争時に英国と同盟を結べた遠因。世界の流行はチュイルリー宮殿から発信された。ウジェニーは現代のオートクチュールの基礎を築いた。それぞれのブランドはフランスの外貨獲得に多大に貢献している。彼女はファッションの世界だけでなく女性の社会進出にも門戸を開いた。
摂政
ウジェニーは生涯で3度摂政になった。3度目の摂政は普仏戦争の時。皇帝の持病と女癖も治らず政治的判断も往々間違った。老獪なビスマルクの挑発にまんまとのって不十分な軍備で戦争に突入。この日に備えておさおさ準備に怠りなかった鉄血宰相だ。1870年プロシャとの戦争で敗れて、ナポレオン3世はセダンで虜われの身となった。ウージェニーは戦場での指揮系統を混乱させた。敗戦の責任は皇妃にもあった。留守番中のウジェニーはチュイルリー王宮から命からがら脱出し英国へ亡命。第2帝政は終焉した。遅れて亡命した夫は3年後失意のうち客死。
政治的過ち
ウジェー二ーはカトリック勢力拡大に拘泥した。ウジェニーは結構政治向きなことに口を挟んだ。無謀なメキシコ出兵でハプスブルグ家のマキシミリアンを担ぎだし惨死させことは生涯彼女を苦しめた。政治好きだったスペインの実家の母の影響。ウジェニーは閣議にも出席した。外交問題に介入すると誇大妄想的になり往々にして混乱した意見を述べ、またそれに固執した。
晩年
夫の亡命後客死ののちもウジェニーは長い晩年を生き延びる。皇帝亡き後1人息子ナポレオン4世の養育に専念。彼女はボナポルド家再興の夢を強いる余り息子を追いつめた。期待どおり立派に育った息子はイギリス軍に入隊しボーア戦争中アフリカで戦死。ウジェーニは英国の片隅でその後の40年をひっそりと生き延びた。1920年故国マドリッドで死去。ここには姉の婚家アルバ公爵家がある。
ベルエポックの華
彼女こそパリの最も麗しい世紀に彼女の人生の最も麗しい日々を重ね得た希有のひと。

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