パリ大改造
何よりも地図を
オスマンはナポレオン3世の意図を汲んでパリの大改造するのに何よりも正確な地図が要るとデシャンに指示。デシャンは直ちにパリ市全域の三角測量を行い、正確な1/5,000地図21枚を迅速に作成し、この期待に応えた。そして、知事執務室に置かれたこの地図をもとに、パリ改造計画が策定された。
パリ大改造の4つの側面
1)街路 2)建物3)公園4)インフラ整備から成る。
1)街路
治安第一 

若き日革命運動に携わったオスマンは細く込み入った街路によって区切られた街並を全面的に改造することに着手した。つまりパリ市内全域に広い大通りを貫通させ、その大通りによって広場を結ぶ。それまで細かいます目で区切られいた街区はバリケードを築くことは不可能になり、騒乱が起これば速やかに警察や軍が出動できるようになった。オスマンはパリを拡大し美化し衛生的にと試みたがこの政権自体クーデターで奪取したもろいものだったので治安は大事な課題だった。ナポレオン3世が熱望してやまないことはパリを民衆の暴動から政権を守る戦略的な首都とすることだった。
 

花のパリは街路に規定されている。

これまでのパリの都市整備は既存の都市構造に足し算していく形だった。幹線道路が交差しているところは交通の要所となり活発な都市生活の中心となった。市民に対する帝政権威の象徴として役割もあった。樹木を装飾の道具とした等間隔の並木道はオスマン時代の都市計画上の発明である。オスマンは実に5万本の街路樹を植え幹線道路の美しい縁取りとした。民衆を圧倒するにふさわしい壮麗な建造物は諸外国も圧倒し世界の首都の観も呈した。
オベリスクのあるコンコルド広場から凱旋門まで続く全長約2km、幅100mの並木道シャンゼリゼ大通りはパリの都市軸である。車道約84m、歩道帯片側20mという広さは道路というより公園の機能も兼ねているようだ。この時代に生まれたブルジョワ階級の買い物、散策、レストランやカフェの場所の提供を計画した。この時代をブルジョワの子弟として生きたマルセルプルーストもここからブーローニュの森への散策を日課とした。約8m間隔のプラタナスが両サイドの歩道に2列づつ植えられ単にパラソル代わりでなく凱旋門を飾る幹線道路の縁取りの装飾効果を狙っている。ここは王の道として王が凱旋する場所であった。
2)建物
1852年には土地収用法が改正された。おかげで貫通道路沿いの歴代の王さえ躊躇った個人の私有地の収容にも手をつけられるようになった。破壊した沿道の建物を全部新築し美観に合致した建物を規制どおりに作れるようになった。個人住宅でも外観は公共記念物の役割を果たす義務を背負わされた。建築は12世紀から20世紀の800年という年月の隔たりを持ってもしっくりと馴染んでいるのはこの規制のおかげ。6階建てで、1階は店舗、3階と5階には鉄格子のバルコニーを配している。建物の幅、色などの建物に対するこのような細かな規制が、パリに秩序を与え、統一感のある街並みを実現させている。建築家マンサールの名を取ったトタン屋根はグレーで建物はベージュに統一。
Cour du Commerce St Andre
道一つ向こうの通りの世界最古のCafe《ル・プロコップ》Le Procopeの裏口がありこの小道側からも出入り出来る。パリ情緒を留めるほとんどの通りが破壊者にして建設者のオスマン男爵によって消えていった。現在18世紀半ばの石畳と建物をわずかに残すのはこの小路だけになっている。
3)公園
昔のブーローニュの森
この森の名付け親はフィリップ4世で、ノートル・ダム・ド・ブーローニュ・ル・プティ寺院の建設にちなんだもの。しばらくは修道院所有の土地であったが、フィリップ・オーギュスト王によって王族の狩場とされた。フランソワ1世はここにシャトー・ド・マドリッドを建てた。ルイ14世が森林に手入れをし、新しく広い遊歩道を造らせると、洒落者のパリジャン達が散歩を楽しむようになる。18世紀末、発明家モンゴルフィエが初めて気球による空中飛行に成功したのも、ここである。のちにフランス革命の混乱のなかで建物は荒らされ昔のように貧民たちの住む場所逆戻り。(百年戦争の頃はこの森は泥棒の巣窟であった)。
生まれ変わったブーローニュの森
1852年

ブーローニュの森が市の管轄となり、オスマン男爵の指揮で公園とされた。ナポレオン3世は都市自体を人間の身体に見立て酸素を供給する両肺として西にブーローニュ東にウ゛ァンセンヌの森を配した。緑地と公園の整備はパリ市東西ふたつの森の他に市民が安全に利用できる公共の憩いの場を市内にも設ける計画だった。英国の公園を亡命中つぶさに研究し彼自身も優れた園芸家であったナポレオン3世は緑地と公園の整備は伝染病を防ぐ手段として有益と確信。こうした空間で中産階級を中心に社交場として人を集める効果を期待。オスマンは造園家アルファン抜擢した。彼によりかっての夜盗追い剥ぎ跋扈する森が見事にブルジョワの社交場にと華麗に変身した。このとき掘り返された土はモンマルトルの丘の盛り土に使われた。「ロンシャン競馬場」は競馬ファンであったナポレオン3世と異父弟モル二ー伯爵の全面的賛成により、国庫から補助金が出されて1875年に建設されたもの。パッシーの森は国有林だったので売却しその資金も流用した。
造園技師アルファン
Jean-Charles Alphand
は、まずブーローニュの森と西に庶民のためのヴァンセンヌの森の改修を行った。これらはもともと王家の狩猟のための森だった。彼はこれを一般 に開放し公共公園とした。絵画的な英国式のデザインで整備した。従来のフランス様式が幾何学的で絶対王政のイメージなのと比べ自由で闊達な時代風潮ともマッチした。アルファンはまた、ビュットショーモン公園(1859年)、モンソー公園(1860年)、モンスーリ公園(1865年)など一連の公共公園を整備した。
4)インフラ整備
オスマンは希有な実行力に富んだ行政官で優れた都市プランナーでありインフラ経営者であった。
1830年頃のコレラの大流行などにより.衛生的な都市基盤つくりは急務であった。
彼は汚水をセーヌ川へ直接排水することを禁止。代わりに北西方向に運びセーヌ下流のアスニエールで放流させた。
。オスマンは給水事業部主任だったベルグラン技師に命じ下水道の大幅拡充を図った。ベルグランの設計により、8kmの下水道が建設され、1870年には2,000kmが完成した。現在は2,300kmであるから、120年前に全体の約9割が出来ていた。オスマンの17年弱の任期中に延ばし疫病の絶滅に成功した。 地下に馬車を通せるほどの大口径の下水溝に上水道の導管も敷設する「共同溝」を造った。この大口径のおかげで下水溝は維持管理も容易にした。
160kmも離れたヨンヌ峡谷、ヴァンヌ峡谷、デューイ峡谷の水源を開発し、その水をパリに送ることで、
市内の水道供給量を2倍以上に増やすことに成功した。

照明、水道、下水設備ほか墓地の改善も課題であった。照明の問題にはガス灯を街中に設置し治安を向上させた。しかし共同墓地は公衆衛生の問題ととらえ人々に心情的な面を考慮していなかったため実現に至らなかった。

都市計画家 ナポレオン3世
皇帝夫妻に新ルーブルの設計図を見せるオスマン。

オスマンはナポレオン3世の意向を何よりも尊重した能吏でもあった。ナポレオン3世はパリ大改造に着手したくて権力を握ったと言っても過言でない。皇帝ナポレオン3世こそ明確なビジョンと強い意志を持った不世出の都市計画家だったのだ。このパリの外科手術は外科医皇帝自身執刀医オスマン二人のチームでやり遂げたもの。

オスマンの功罪 フランス人にはもともと軸尊重の傾向がありたまたまそれがパリという軸線を基調としている幾何学的都市の再改造には向いていた。都市軸は交通機能を大事にする街路性よりも、むしろプロムナード性が全面に出ることが多い。オスマンは利便性優先より市民への心理的充足感を与えて施政者ナポレオンへの信頼を高めようと意図した。オスマンの強力な自己満足のための強引な手法には批判もあったが、不衛生な中世都市のままであったパリを近代都市へと生まれ変わらせた業績は不滅だ。このナポレオン3世のこの大プロジェクトの費用は膨大なものなった。パリの外科手術代25億フランは金塊725トンに相当する。
結局オスマンはパリの60%を改造したことになる。
改造資金の錬金術

オスマン以前の古いパリ

オスマンはパリ大改造工事に必要な資金捻出でかなり危ない橋を渡らざるを得なかった。その錬金術は
1)無秩序で汚れた街並みの土地をパリ市が安く買収し2)そこに上下水道管、ガス管を敷設し、さらにその上に幅広い道路を建設する。3)その道路の両側の土地を民間に分譲したが、それが高値を呼びパリ市に巨額の金が入った。
パリ市自身が官営?の地上げ屋とデベロッパーを兼ねたのだ。
さらに工事が始まると、人とモノがパリに集まってきた。4)パリ市の主要財源の入市関税の税収急増によりパリ市の金庫が潤沢になる。それを見た金融機関はこぞって5)パリ市が発行する公債を購入した。パリ市は公債収入を新たな都市計画に投資しさらに公債発行へとつなげていく。自転車操業にも似ている。空前のバブル景気にパリの街は湧いた。
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