ナポレオン3世の生涯

Charles Louis-Napoleon Bonaparte

1808年〜1872年
生い立ち

父ルイ・ボナパルト

ナポレオン1世の弟であるオランダ王ルイ・ボナパルトとオルタンス・ド・ボアルネ(ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子)の3男として1808年パリに生まれた。幼少時は王族としてに裕福な生活を過ごしていた。ナポレオン・ボナパルトが1815年、ワーテルローの戦いに敗北すると亡命生活を強いられる。 父ルイ・ボナパルトはリューマチの持病もあり鬱病気味だった。母オルタンスと不仲で後に離婚。
ルイ・ボナパルトにはその出生から問題があった。オルタンスは母ジョセフィーヌの浮気な性質を受け継ぎ恋多き女だった。1815年のナポレオンの百日天下の間、オルタンスはテュイルリー宮殿にナポレオンより一足早く入り女主人の役目を務めた。彼女と兄ウジェーヌは、ナポレオンの兄弟姉妹達とは違って最後まで義父ナポレオン1世に忠実だった。ナポレオン1世没落後はドイツ・イタリアに亡命した後、スイスのチューリンゲン州の城館アレネンベルクを買い取り定住した。父に疎まれたルイ(後のナポレオン3世)にとって母オルタンスは全てであった。母と宰相タレイランの息子との間の子がモル二ー伯で第2帝政の中枢にあった。異父弟モル二ーは祖父タレイランの血か洗練された文化人でもあった。
スイスの湖畔

スイスの美しい自然と城館アレネンベルクの日々がナポレオン3世の精神形成に大きく影響した。これが後のパリ大改造の最大のモティベーションとなる。彼の持病であるリューマチもパリの太陽の欠如を忌み嫌わせた。彼がスイス育ちでパリへの愛着がなかったことがあの大改革を断行できた一因ともいえる。

チューリンゲン州

養育掛り
母オルタンスは徹底的にルイナポレオンを甘やかせた。さすがに軟弱な息子を案じナポレオンの遠征にも従軍したル.パ将軍夫妻に養育がかりを依頼。厳格な強化合宿並みの猛訓練が始まった。侍女との添い寝も止めさせルイは数ヶ月夜泣きしたが放置された。ル.パ将軍はルイをアウグスブルグのいギムナジウウムに入学させる事を進言。ここでルイはかなりの好成績を修めたがおかげでドイツ語がしっかり身に付いた。生涯ドイツ訛は消えなかった。18歳になった頃母のサロンに出入りする若い女性に大いなる関心を寄せまた実行した。この女性に対する素早い行動力はルイの生涯に付きまとった。次第にル.パ将軍が煙たくなり将軍は解雇された。
天命を信じて
1830年から1831年にかけてイタリアに滞在していたが、その間に兄ナポレオン=ルイ(フィレンチェで育った)とともに過激派のカルボナリ党に参加。おかげでオーストリア官憲から追われる身となる。ナポレオン=ルイは1831年、弟とともに逃亡のさなかに麻疹で病死した。翌1832年には、従弟ナポレオン2世もウィーンで病死した。ルイ=ナポレオンは伯父ナポレオン1世の後継者たらんと決意を強める。
マチルド皇女
ナポレオン1世の末弟のジェロームの娘。1830年からはルイ・ナポレオンはカルボナリに入党した。そのうち1835年頃ににボナパルト一族の結束を固めようとルイ・ナポレオンとマチルドを結婚させようという話が出てきた。従兄弟同士の婚約はストラスブルグ蜂起の失敗により破談。マチルドは破談のあとロシアの富豪と結婚するも離婚。短い結婚生活ののちパリに戻りベルエポックのパリでも1〜2を争うサロンを開いた。彼女のサロンにはアナトール.フランス、ポール.ブールジェ、エドモン.ロスタン、ピエール.ロチなど文学、芸術界の寵児達が常連で彼女は「芸術の保護者」(メセーヌ)として名を馳せた。若き日のプルーストは1890年頃から高名なサロンめぐりをし、マチルド皇女のサロンにも出入りしていた。彼のサロン生活の体験は、後の大作「失われた時を求めて」の中で典雅に再現されている。皇女はナポレオン3世と終世関わりを持った。独身だった頃の大統領のためホステス役も勤めた。
ストラスブルグ蜂起
1836年には新国王ルイ・フィリップに反対しストラスブルグで蜂起。杜撰な計画であっさり鎮圧され国外追放された。その後も反乱の機会をうかがうも結局イギリスへ亡命。終身禁固の刑を受け脱獄までやった上での亡命。ルイ・フィリップが失脚するとフランスに帰国しフランスの7月王政打倒を訴えて2度反乱を起こすが失敗。フランス皇帝になるという自らの天命を確信した上での行動だった。ポナパルト一族の当主だったナポレオン2世がウィーンで死去するとルイ・ナポレオンが当主になる。母と離婚した父ルイボナポルドも母オルタンス元オランダ王妃も莫大な遺産を息子ルイナポレオンに遺した。彼のロンドンでの亡命生活は大変豪奢だった。
混迷するフランス

ルイ・フィリップは西洋梨そっくりで漫画家の恰好の材料になった。

ナポレオンが失脚したあと、ルイ18世、シャルル7世と復古主義的なブルボン家の国王が続き、これに対し立ち上がった人々は自由主義的な考えを持っていたルイ・フィリップを国王する。
国王は資本家を保護しすぎたために反発を買い、1848年2月にパリの民衆によって王座を追われ英国に亡命した。 フランスは第2共和政がスタート労働者を保護しすぎたため、今度は労働者以外の人達から猛反発を喰らい4月に行われた選挙で社会主義勢力は大敗を喫した。これに反発労働者達が蜂起する。この6月暴動は死者30000人以上、逮捕25000人以上、死刑1500人という凄まじい弾圧が行われた。再びフランスが混乱に陥った中で大統領選挙が実施された。1848年12月のことだった。
馬上のサン・シモン
サン・シモン(Saint-Simon)(1760年〜1825年)
ナポレオン3世はサン・シモン主義を学んでた。アムス監獄収監中は獄房はさながら研究室のようだった。ナポレオン3世の生涯の思想的基盤となったといっても過言ではない。『ナポレオン的観念』(1839)『貧困の絶滅』(1846)などがある。彼は政権につくとただちに貧困者のための共同住宅を建設した。貧しい者たちのための共同浴場は失敗した。その資金はオルレアン家の財産を没収して実行した。オルレアン家のパリの大邸宅の跡はモンソー公園やフォッシュ街クレベール街など現在の最高級住宅地に改造し高額で分譲された。『山高きを削り谷を埋める』やり方だった。 彼の政治は現実的で資本家を優遇する一方で、労働者の生活も保障し、そのバランスに上に独裁権力を構築した。彼は自分の政権が社会主義者の支持によって成り立っていることも忘れなかった。

クレディ・モビリエ
サンシモン主義の思想に基づいて1852年に設立されたのが、クレディ・モビリエ(Credit Mobilier)であった.皇帝と同じく熱心なサンシモン主義者のベレル兄弟が経営。巨大なロスチャイルド資本と競合して苦戦した。これは零細資金をまとめて→投資銀行として活用するもので、鉄道などの大規模事業に利用された。フランスに空前の投資ブームを招くきっかけにもなった。

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