ナポレオン3世誕生
皇帝ナポレオン3世へ
2月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰。フランス第2共和政期に対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選。大統領で権力を蓄えた後、1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年にはナポレオン1世と同様国民投票を経て帝政を開始、ナポレオン3世として君臨する。熱心なナポレオン3世の崇拝者腹心ベルシーニと異父弟のモル二ー公という2人の助力とミスハワードというロンドン以来の愛人の資力の助けも忘れてはならない。
権威帝政 1852年〜1860年
自由帝政 1860年〜1869年 英仏通商条約(自由貿易への転換)
議会帝政 1869年〜1870年 エミール・オリヴィエ内閣
対外政策
外交面では軍事力を強化し海外侵略を行い国民の不満の目を内政からそらす。このナポレオン1世愛用の統治方法であるポナパルティズムを踏襲した。内政面では絶妙なバランス感覚で政権の安定を図った。八方美人的と言えなくもない.

クリミア戦争 (1853〜56年)
アロー戦争 (1856〜60年)
イタリア統一戦争 (1859年)
インドシナ出兵 (1858〜67年)
メキシコ出兵 (1861〜67年)
メキシコ出兵
財政難のメキシコの外債利子不払い宣言を口実に、合衆国の南北戦争の隙に乗じて、イギリス・スペインを誘って共同出兵
共和政府を倒して、オーストリア皇帝の弟マクシミリアン*をメキシコ皇帝にした。イギリス・スペイン撤兵後も増兵メキシコ軍のゲリラ的抵抗と疫病でフランス軍壊滅モンロー主義に基づく合衆国の抗議マクシミリアンを見捨てて撤兵(1867年)
ウジェニーの介入
1861年8月、ビアリッツでバカンスを送っていたウジェニーの許を、彼女と旧知の亡命貴族でメキシコの外交官のホセ・イダルゴが訪れた。ウジェニーに「メキシコは救いの神として、騒乱を収めてくれる君主を必要としています」とフランスの援助を訴えた。カトリックだった彼女は、メキシコをカトリックの大帝国にするという野望にすぐに夢中になった。ウジェニーはこの話を夫にも聞かせ「絶対に介入すべきです! この戦争はあなたの治世の中で、最も輝かしいものとなるでしょう! ナポレオン1世を感激させるに違いありません!」と皇帝を押しまくった。
マクシミリアン1世
1832年〜 1867年6月19日
ハプスブルク家のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。メキシコ皇帝。ベルギーの国王・レオポルド1世の王女シャルロッテと結婚。ロンバルディア・ヴェネツィア王国の総督となる。
1864年にナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡として帝位に就けた。ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまった。孤立無援となったマクシミリアンは自由主義勢力に捕らえられ、銃殺刑に処された。シャルロッテ皇后は狂気のままベルギーで生き延びた。
ウジェニーへの非難
皇皇帝マキシミリアンの処刑 7月1日万博式典の最中に届いた悲報でマクシミリアンの銃殺刑を知らされウジェニーは「この私なのよ、私1人でやった事なのよ。メキシコに行くようにと、あの不運なマクシミリアンを説得したのは。私の提案によって、この不幸な事件は企てられたんだわ!」と叫んだ。翌日秘密警察署長はナポレオン3世に拝謁した。皇帝はマクシミリアンの悲劇について民衆は動向を尋ねた。『。。いたる所で、人々はあの戦争の責任。。。。』と言明しております」と答えた。皇帝は「誰の責任なのだ? 誰のせいなのだ? ぜひそれを知りたい!」とさらに促した。署長は重い口を開き『あれはスペイン女のせいだ』と」と事実をありのままに話した。
スエズ運河開通
外交官で技術士官レセップス(1805〜95年)。エジプトで副領事を務めたことがあり、「スエズに運河があって、ここに大きな船も通行できるようになれば、これまでのようにヨーロッパから中東に出るのに、南アフリカ経由で行くことが亡くなって便利になるな」。
オスマン朝のエジプト太守サイード・パシャを説得し、工事の許可を獲得。1858年エジプトの会社として、スエズ運河会社が設立(当初はフランスとエジプトが株を所有し、99年後に完全エジプトへ移管と決められる)。10年の工期と1億ドルもの莫大な予算、さらにその3倍ともいわれる修復費・改善費を投じて開通した。海運に計り知れない革命をもたらした。オペラ『アイーダ』はスエズ運河開通を記念して作られた。
レセップスはパナマ運河開通も任されたが資金繰りに行き詰まった末、贈収賄に手を出し息子と共に罰金と懲役刑の判決が下された。
 
ドイツへの介入
マキシミリアンの悲劇によるナポレオン3世の人気低下〜あせってドイツ統一の妨害に乗り出した。
プロシャのビスマルクは統一ドイツの実現の過程でオーストリアを破ったあとナポレオン3世が介入する可能性を考えていた。彼は元駐仏大使で先読みの天才。フランスと戦争は必然で ナポレオン3世側から宣戦布告を画策しエムス電報事件を起す。普仏戦争を起こさせる引き金をナポレオンに引かせた。1868年スペイン王位継承権問題をエムスという温泉町でヴィルヘルム1世と ナポレオン3世の大使ベネディッティの謁見時を利用。ビスマルクは,電文に手をいれて,フランスがプロイセン王を脅迫しているかのようにして発表した。フランス・ドイツ両国民の世論は沸き,ナポレオン3世は宣戦布告しビスマルクの思うつぼにはまった。
普仏戦争 1870〜71年
ナポレオン3世は当時腎臓結石を患っていて移動もままならず判断力を失っていた。フランスは7月15日に開戦を決定.プロイセンはドイツ統一をドイツ国民の世論の支持を得て,国際的干渉を受けることなく完成した。

9月2日にナポレオン3世は自ら戦地に赴き、セダンの戦いに臨んだ。セダンで完全に包囲されたフランス軍は破れ、開戦からわずか1ヵ月半、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降しプロシャの捕虜となった。 この一連の出来事に、皇帝が捕虜になった前代未聞の事件に、フランス市民は激怒し、2日後、9月4日第2帝政の終焉とナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。

1870年9月2日 セダンでプロイセン軍の捕虜となり、降伏 退位
イギリスに亡命

結局メキシコ介入とビスマルクがこの第2帝政の命取りとなった。
ナポレオン3世年表

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