|
Baron Georges Eugene Haussman
1809年〜1891年 |
|
|
生い立ち
![]() |
ルター派のプロテスタントの家にパリで生まれた。オスマンの父は、ナポレオン1世の軍費経理官を長く努めた。皇帝のひっきりなしの大遠征の入費の調達とその征服によってもたらされる莫大な償金をさばいた。役職柄フランス金融界と密接な関係を持っていた。行政官としてのDNAはしっかりオスマンに植え付けられていた。オスマン家はケルンからコルマールに移住したドイツ系である。
|
| アンリ4世校に学ぶ。このとき級友にオルレアン家のシャルトル公 のちの王ルイ・フィリップがいた。音楽にも秀でていたが法律を専攻。法律学校の生徒だったオスマンは弱冠20歳にして騒擾をたくらむ学生や市民たちとの連絡係をつとめる。財界のお歴々の要請の下で彼等にこっそり資金を渡す役目を引き受けたのだ。ナポレオン没落後に登場した王制復古政権に対し金融界は政権の転覆を望み民主化を要求する勢力に裏から手を回し支援を与えていた。.このデリケートかつ危険な仕事を見事にこなした。若きオスマンは父親のコネをフルに活用。この経歴は後のオスマンの事業を考えると奇異だが、彼は若くして反動勢力の動きも金銭との関わり方も経験するはめになった。この経験が後に行政官としての彼に大いに役立った。オスマンは軍人の家に生まれた自他共に許すバリバリの『帝国主義者』だった。 |
|
| 時代背景 | |
![]() |
1830年7月シャルル10世はパリを去りブルボン王朝は終わった。オルレアン公ルイ・フィリップが王座についた。7月王制の誕生である。別名株屋の王とも呼ばれた。王政復古後は莫大な資産を回収し,投機や亡命貴族に対する賠償金によりさらに蓄財した。七月革命により市民王に推戴された直後は,改革主義の運動派と保守主義の抵抗派の均衡をとっていたが,しだいに金融貴族の寡頭支配の象徴となった。時代はまさに資本主義発展の段階でのブルジョワの世紀となった。 |
| 行政官への道 | |
![]() |
オスマンは22歳の若さでヴィエンヌ県の部長に任命された。事務方の最高ポストであり、登用は異例中の異例だった。以後オスマンは生涯にわたって地方行政畑を歩くことになる。 ネロン、バイで副知事を務めたオスマンは、1848年の2月革命にさいして再び飛躍の機会を攫む。オスマンはいち早く革命政府に忠誠を誓い、反革命運動を鎮圧した。年末の大統領選挙には、ルイ・ナポレオンを当選させるべく選挙干渉を行なったのである。オスマンはワイン業者の娘と結婚。今も一族の16世紀の城の回りに20ヘクタールのワイン畑を持つ。 この蔵は1832年に創設され、6世代に渡って一族に受け継がれた。この血縁が反ナポレオン勢力の封じこめに役立った。 |
| セーヌ県知事へ | |
![]() |
ルイ・ナポレオンは帝政を復活しナポレオン3世として即位した。オスマンは新皇帝に反抗する民衆の取り締まりを周到にやりおせて、政権の安定化に貢献をした。若きルイ・ナポレオンはロンドン亡命の際にもパリの地図を携え青と赤の鉛筆で文字どおり青写真を描いていた。(その地図はパリコミューンで焼失。ベルリンにそのコピーがあったが世界大戦中焼失)ナポレオンは自身で既に作成していたパリ市大改造の詳細なマスタープランをセーヌ県知事のベルジュに見せた。「この計画通りにパリを改造せよ」と命令する。ところがベルジュ知事はパリの危機的な財政事情を理由にパリ市議会と結託して改造工事着手を渋った。ナポレオンはベルジュを解任。1853年ジロンド県知事オスマンはセーヌ県知事に任命される。セーヌ県は首都パリを擁するフランス最大の行政区である。中央集権国家フランスにおいては、パリの制圧がすべてを決定する。オスマンはナポレオン3世じきじきの命令により、パリを全面的に改造する任務を与えられた。 |
|
オスマンのパリ
|
|
![]() |
オスマンの非凡さはパリ大改造のプロジェクト・マネージャーに、エコール・ポリテクニック(理工科学校)出身のマリ・フランソワ・ベルグランとアドルフ・アルファンの2人の専門技術者の伎倆を見抜き登用したこと。パリ市ではオスマン以前から道路の幅員と対応する建物の高さ規制の法律があった。がオスマンはたんに高さだけでなく、ファサード(=建物の正面)についても、街区の建設者がバルコニーや軒蛇腹などの線を揃えるように行政通達を発令。統一感を生み出すように行政指導。美学的な観点を盛り込むことで、均整の取れた美しい町並みを作り出すことに腐心したのである。 |
|
パリ20区
|
|
![]() |
オスマンはパリ市内は20区に分けた。セーヌ川右岸の中心部を1区として右回りの渦巻き状に2・3・4区・・・・・・と付けられている。1860年の市街拡大の時エスカルゴを参考にして付け直したと言われている。 |
![]() |
オスマンはその功績により男爵に叙され元老院議員に選ばれ、学士院会員にも推挙された。その栄達の華やかさにも関わらずその人柄についてのエピソードは乏しい。また皇帝の失脚後に書いた『回想録』も、内容に乏しい上に虚偽が多いと言われている。オスマンは1870年に失脚した。ナポレオン3世は共同夢を共に実現したオスマンが会計不明朗をつかれ職を辞すのを断腸の思いで耐えた。オスマンの壮大な改造計画は後退を余儀なくされたが、パリ市当局は彼の美学的見地からの規制という思想はしっかりと受け継ぎいだ。このためパリは無秩序な再開発から救はれた。後に明るみの出たさまざまな政治的陰謀への関与を考えれば彼がその素顔を隠し通したのはむしろ当然というべきかも知れない。 |
| 「知られざる巨人」 | |
| オスマンは17年と僅かに欠ける任期の間中世からのルネッサンス・バロック的な街並みや継続的な都市の歴史を一気に破壊した.その輝かしい功績は一官僚として持てる全ての力を結集してパリという街を人類の遺産としてまで造り上げていったことにある。破壊者と建設者との2面性は常につきまとうのは職業的にも仕方がない。 |
TOPに戻る