EXPO PARIS

パリ万博
1855年から1900年まで(1855,1867,1878,1889、1900年)
その間帝政から共和制に政治体制の移行はあったが、5回もパリで万国博覧会が開催された。エッフェル塔、シャイヨー宮、グラン・パレ、プチ・パレ、オルセー美術館などは、万博施設として建設されたものである。パリは「博覧会都市」なのである。1855年、ナポレオン3世は、4年前に大成功したロンドン万博に対抗。フランスの威信を懸けて最初のパリ万博を開催した。この時は、入場者数520万人と期待程ではなかった。1867年のパリ万博は、ロンドン万博を質量で超えた。 
ユートピアの実現を
万博から生まれた商品や新しく提案された暮らしのスタイルがパリの街や人々の暮らしを大きく変えていった。
百貨店

ボンマルシェ百貨店

パリ万博では出品された製品に値段をつけ展示即売した。これによりすぐれた商品を取り揃えて売るという百貨店(デパート)の発想が生まれた。陳列された商品を見ながら買うという習慣はそれまでなかった。万博に出品された織機やミシンの発明のおかげで安価な衣類が既成服も誕生し庶民の装いを彩った。

メダル
すぐれた製品に金、銀、銅などのメダルを与えて栄誉を讃えたのは1855年のパリ万博から。香水の「ゲラン」、カバンの「ヴィトン」、ガラス器の「バカラ」、銀食器の「クリストフ」などがメダルを取り、これら製品の優秀さが認められ、有名ブランドが確立した。皇帝ナポレオン3世が洒落ものでその妻ウージェニも派手好きであった事からオートクチュールなどの贅沢品が産業として栄えた。有名ブランドが誕生し今もフランスに外貨をもたらしている。
ボルドーワインの格付け
ボルドーワインの格付けはパリ万博をきっかけに1855年から行わた。シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥー、シャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・オー・ブリオンが第1級に選ばれ、万博でもメダルを獲得
文化の交流
パリ万博は文化の交流を促進。とくに東洋のエキゾチックなイメージはヨーロッパの芸術や文化に大きな影響を与えた。川上音二郎一座はパリ万博にも招かれ、パリでも川上貞奴の演技が大評判。当時18歳のピカソがそれを観て描いた貞奴のデッサンが残っている。また、マネやモネなどは、浮世絵や日本画の影響を大きく受けた。音楽家のドビッシーは、万博で公開された、ジャワのガムランに影響を受けた。
日本への出展要請
ナポレオン3世の謁見
会場の茶屋
烏森芸者も出演。
ガス燈
万博開催を記念としてガス燈が街にとりつけられた。観光客の眼を奪うとともに第2帝政の威容を飾る。

光の街パリと呼ばれるようになった。

アルミニウム
「粘土からの銀」アルミニウムだった。ナポレオン3世は軽いこの金属をフランス甲騎兵の装備に使うことを考ドビーユを援助。し、製錬技術が確立したのは1886年、用途の方も、甲騎兵の鎧でなくて航空機の材料として脚光を浴びることになる。

マーガリン
1869年譜仏戦争中だったフランスは、生活必需品であるバターが欠乏。皇帝ナポレオン3世は代用バターの発明を懸賞募集し、メージュ・ムーリエの案を採用してmargarineと名付けた。ギリシャ語のmargarite(真珠)から来たことばで、真珠のように美しい油のかたまりという意味。食用油脂に発酵乳と食塩などを加えて乳化し練り合わせたもの。
ナポレオン3世以後の万博
エッフェル塔
フランス革命100周年を記念し1889年の万国博覧会のため建設。高架橋技師「ギュスターヴ・エッフェル」作。当時301mだった高さは、テレビアンテナが設置された1957年には321mと更新された。
ホテル
インターコンティネンタルホテルはテュイルリー公園前の最高級大型ホテル。元々は1878年にパリ万博のために造られた。浴室が作られ大評判を呼び以後ホテルには浴室がつくようになった。入浴する習慣が一般の家庭にも広がる。ナポレオン3世未亡人が住んだり、第2次大戦時にはナチス関連施設として利用される
アレクサンドル三世橋
アレクサンドル三世橋はパリで一番壮麗な橋が架けられたのは、プチ・パレ、グラン・パレと同じく、1900年万博のときである。
オルセー駅
1900年の万国博覧会にむけて、オルレアン鉄道が建てた駅舎。鉄骨の駅の建設が決まったとき、反対の声があったため、駅は今のような壮大な石の外観に仕上げられる必要があった。駅構内にはホテルもあった。廃線になった後1986年ジスカール・デスタン大統領の時オルセー駅は美術館に生まれ変わった。

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