ココデットの時代
裏社交界の女性たち
ルイ.フィリップから第2帝政時代は、ドゥミ.モンデーヌの時代でもあった。ドゥミ.モンドとは、社会的地位を失った階級を意味し、ドゥミ.モンデーヌとは、美貌と才知を武器に自ら選んだ相手に「愛情を売る事によって幸運を求める」女性のこと。だが高級娼婦とはニュアンスが違う。
彼女たちの社会的背景は様々で下層階級の娘であったり、貴族やブルジョアの私生児である場合もある。 クルティザーヌやココットとも呼ばれた。ドゥミ.モンデーヌは、19世紀のブルジョワ社会が生み出した特殊な現象ともいえる。歴代フランスの王のなかでも突出した遊蕩者ナポレオン3世その異父弟モル二ー伯爵は揃ってこの徒花達の後援者であった。

Demi-monde
シャンゼリゼからブローニュの森へと向かう道はこの時代パリで最も華やかな散歩道。この大通りを豪華な馬車で往き交うことが、上流社交界の日課となっていた。ある日美しく着飾った若く美しい女性と上流社交界の中年女性達が交差する。その群れから一人の貴婦人が聞こえよがしに
『あの女は、‘私達の社会’の女では無いわね。』
と小馬鹿にする。この若い女性は間髪入れずこう切り返した。『そうよ。でも、あなた達の‘ご主人’は私の社会の人間ですわ。』
マリ.デュプレシ

小デュマの名作「椿姫」のモデル

上流階級の男性から貢がせた莫大なお金を湯水のように浪費することが彼女たちの‘義務’.現在の金額に換算すると、数百億円にも相当する莫大なお金を短期間に蕩尽する刹那的な生き方の先には破滅しか待っていなかった。その儚さのうちにエレガンスの追求に明け暮れる彼女たちにインスピレーションを受けた文学者や芸術家は枚挙いとまない。。アレクサンドル・デュマは父子揃ってで「エミール・ゾラ」「ヴィクトル・ユゴー」「ウージューヌ・シュー」「テオフィール・ゴーティエ」「オレノ・ド・バルザック」「シャルル・ボードレール」「マルセル・プルースト」「フランツ・リスト」…。ドゥミモンデーヌの存在はこの時代の芸術家達の美意識や創作欲を掻立てた。
彼女たちの生活は、しばしば上流夫人を上回る華やかなものであった。が、両者の間には身分上絶対越えられない厳しい境界線があった。
上流社会の男性がドゥミ.モンデーヌ(クルティザーヌ)と結婚ともなれば、上流社会は断固拒否する。結婚できたとしても、正規な社会から抹殺される実例はいくらでもあった。
他にも、競馬場では彼女達は正面桟敷に席をとることは絶対に認められなかった。しかし、反面彼女たちが、競馬場へ出入りする時は、そのきらびやかな馬車や、エレガントな衣装などで上流婦人たちを圧倒し、群集の間にセンセーションをまきおこした。
ラ・パイヴァ
(1819〜1884)
バブル美女達のうちもっとも隆盛を誇った彼女の邸宅はホテルになって現存。ヨーロッパ随一の金持ちロスチャイルド男爵も招待され男爵が自宅に戻ったとき、「ラ・パイヴァの屋敷に比較すれば、我が家はあばら家同然だ」と嘆息した。
モードの世界 第2帝政期は、第1帝政期ムードの復活と18世紀のブルボン王朝への憧憬によって、新ロココ・スタイルが流行した時代。スカートをピラミッド型に丸く大きく膨らませるための下着の枠と、そのために使われるアンダースカート(ペチコート)のこと。クリノリンを使ってスカートを大きく膨らませたスタイルはクリノリン・スタイルといわれる。ウジェニー皇后の発案で高貴な女性の妊娠を隠すために採用したとか。
モードのうえでは、ドゥミ.モンデーヌと上流婦人の趣味が逆転するという奇妙な現象が見られた。実際ドゥミ.モンデーヌたちは、貴族的な淑やかな装いをし、優雅な振る舞いを誇示した。これに対し、上流婦人たちは歯止めなくコケットな女性を演じようと競い、やがてこの風潮は宮廷をも風靡するようになる。
ココデット ココデットとは華美なモードを追う上流婦人のことで、マチルド公女、メッテルニヒ公妃、カスティリオーネ夫人などは、代表的ココデットであった。
ピエモンテ生まれヨーロッパ一の美女と謳われた。第二帝政期のナポレオン3世の宮廷に、イタリア統一という重大なミッションを遂行すべく送り込まれた。イタリア・サルディーニャ王国のカブール伯達の思惑通り美女に目のない皇帝は篭絡されたがイタリア統一のためには皇帝は動かなかった。彼女の雄途虚しく皇帝と別れ母国へ帰国。だがその美貌は400枚もの肖像写真となって後世に伝わる。
ドゥミ.モンデーヌというブルジョワ社会に咲いたあだ花は、第二帝政期から世紀末、さらに20世紀初めのベル.エポックの時期にかけて引き続きフランスの社交生活を彩っていく。そして第一次世界大戦によって終わりが訪れるのである。

皇妃ウジェニーとその取り巻き

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