エッフェル塔物語

一体エッフェル塔なしのパリの風景など思い浮かべる人などいるだろうか?高さは約300M。通信用アンテナを除く,7000tの鉄と1万8000個の部品を2500万本のリベットで組み立てられた。高さのちがう3つの展望台がついている。300mの塔はわずか300人の作業員で予定通り26ヶ月で完成。1989年3月31日のことだった。今で言うプレハブ工法を使った。塔の建築総コストは約780万フラン1889年エッフェル塔株式会社が得た収益は早くもそれに迫る657万フランにのる。株主は1年後には償還を受け、10年後には配当金が支払われた。こうして、エッフェル塔は営業面でも大成功を収めた。現在は1日平均1万7000人が上るパリの代表的な観光名所。10年に1度独特のブロンズ色のペンキ塗り替えが行われる。遠近差を出すため3色の濃淡で塗り分けられる。
時代背景
時はナポレオン3世の第二帝政期。セーヌ県知事オスマン男爵とのコンビでパリ大改造に着手する前でまだパリはせいぜいサクレクール寺院がモンマルトルの丘に姿を見せ始めた位でまだ屹立した建造物の無かった頃。照明が1814年来のガスから電気に代わった。馬車が電車に代わり始めた。
建設の意図
普仏戦争の敗北から国民意識を高揚するため時の大統領フレシネは巨大建造物壮大な意図をもったものを公募した。結果107にものぼる応募案のなかから選ばれたのはギュスターブエッフェルの鉄の塔だった。1887年 から1889年にかけて、革命百周年記念となるパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔をシャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建設する。
「鉄の貴婦人」

多くの批判に曝されながら『塔は人類史上、最高の建物となるだろう。壮大というべきであろう。エジプトで賞賛されているものが、なぜパリでは醜悪なものとなるのだろうか?私にはどうしても納得できない』 とエジプト出身?のオベリスクを当てこすりつつエッフェルは胸を張る。エッフェル塔が造られた19世紀末は,まさに構造用材料として鋼の時代の黎明期.エッフェル塔は新しいテクノロジーのシンボルとして是が非でも「鉄」の塔でと思い詰めたかも。エッフェル塔は20年の後取り壊しが最初の条件だった。まさか百年以上経った現在までパリのシンボルとして残るとは『望外の喜び』だったのかも知れない.技師冥利に尽きるだろう

燃えるロウソク

塔の延命の一つの理由に,先端に軍事用のアンテナがつけられたこともあるが観光用シンボルとして失うべき命を長らえたといえよう。.石造建築にご執心の人々からは建物と言うよりは鉄塊,鉄でできた骸骨というボロクソに言われた。作家のモーパンサンなど『できたらこの手で打ち壊したい』と息巻く。そして見なくて済むから塔内のレストランの常連になる。1889年のパリ万博めがけて突貫工事が始まると連名の抗議文を突きつける。『頭のおかしいピラミッド』『空っぽのシャンデリア』とさんざんな愛称?
パリの北斎
けなされるだけでなくエッフェル塔はまた多くの賛美者もいた。詩人アポリネールは空の恋人と塔を賛美。鉄の万華鏡とか鉄のレース編みと称える人もいる。アンリ・リヴィエールは『北斎の富岳36景』にならい『エッフェル塔36景』という版画を製作した。

この頃は写真技術の普及もあり正確な工事の進行は資料として多くの写真として記録された。完成まで塔はジャックとまめの木のようにニョキニョキ伸びてパリの人達を喜ばしたにちがいない。基礎部分は57度の角度に計算された。

ギュスターヴエッフェル (18332〜1923年)
ディジョン生まれ。1852年にエコール・サントラルで技術職を学ぶ。1866年には鉄道資材会社から独立、国内では大きな仕事は受注できず、鉄道の架線工事など比較的小規模の工事を請負っていた。国外での活動は活発であった。1875年にはハンガリーのブダペスト市終着駅とポルトガルのドゥロ川にかかるマリア・ピア橋の工事を受注した。彼はパリ・オルレアン鉄道の技術者を務め、多くの鉄橋・駅舎の設計にかかわった。これらはいずれも錬鉄を用いたもので、鋼鉄を素材として用いたものは比較的少ない。オーベルニュのガラビ鉄道橋は鉄の魔術師としての彼の名を不動にした。パリのデパートボン・マルシェ、シャルル・ガルニエとの共作であるニースの天文台も有名。1887年 から1889年にかけてエッフェル塔。1889年自由の女神の内部構造の設計に携わり1923年にパリの自ら設計した自宅で死去。
塔の足元にチョコンとくっついているエッフェルの胸像。1930年アントワーヌブールデルの作。
自由の女神
ニューヨーク港に到着した何百万人という移民が第二の故国で初めて目にするのがマンハッタンの南リバティー島に立つこの堂々たるやや太めの美女.。「世界を照らす自由」が正式名称のこの美女に会いに毎年350万人を超える観光客がくる。この像はアメリカ独立100年を記念してフランス国民から贈られたもの。 仏米協会が寄付を資金としてバルトルディの設計により銅板で造られた。内部の鉄の骨組みの担当者こそギュスターブ・エッフェル。重さ225トン、高さ50メートルの像はフランスで1884年に完成。その後、分解して、アメリカに運ばれ2年後にやっと除幕式がとり行われた。入り口近くの銅の銘板にはエミリー・ラザラスの詩「新大国」の詩が刻まれている。
世界のエッフェルの建造物
Don Louis
1886年 架設ポートワインで有名なポルトガル、ポルト市のドオロ河両を結ぶ2階橋。橋の長さは 123m 形式は纔H式アーチ橋上路上路式アーチで目もくらむ高さと交通量にブルブル震えながら歩いた。ポートワインのメーカーが川沿いに並ぶ。エッフェルの弟子べルギー人技師による。不世出の鉄橋技師エッフェルの指導のよろしきを得たからだ。100年越えて鉄道と車と人間をまとめて面倒みて未だ頑張る橋。ヴェトナムにもエッフェルの造った橋が現役で活躍中。
ヒットラーとエッフェル塔
エッフェル塔は水圧ポンプ式のエレベーターがつけられた。1940年第2次世界大戦中 ナチスドイツがパリ占領
。パリが大好きなヒトラーが早速エッフェル塔に上ろうとしたところ突然エレベーターが故障 。やむなくヒトラーは最上階までエッチラエッチラ階段で上 った。エレベーターの故障はその後1944年6月のパリ解放の時、ねじをちょっとひとひねりしたら直ったとか。どうもパリ占領の日愛国心に燃える技師のひとりが細工したらしい。

向かって左は建築家アルベルトシューペアー

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