パリの蕩児トゥールーズ=ロートレック

HENRI DB TOULOUS=LAUTREC1864〜1901

大貴族トゥールーズ=ロートレック伯爵家の嫡男として南仏のアルビに生まれた。14才からの2度の事故で下半身の成長は止まったままの痛ましさ。不具の身となったロートレックは、絵画で彼の《欠けた人生》を補おうとした。父親アルフォンス伯は嫡男と馬を駆け狩猟をする夢を永遠に奪われた悲しみの故か息子に辛く当たった。パリに出るまでの間何点もの馬の絵を描いた。もはや騎乗は見果てぬ夢となった。パリに絵を学ぶ為に出発。モンマルトルに住み着いた。

アルビへ
彼の母は36才で逝った不遇の我が子の絵の散逸を恐れて故郷アルビに買い戻した。そのため彼の絵の6割約1000点はこの街にある。トウルーズ北東約80kmのアルビ。近くに石切り場がないこの辺りは赤レンガで作られたバラ色の街。アルビは徹底的に迫害を受けたカトリック教会の異端アルビ派の牙城。朝トゥールーズ駅からことこと2両編成の列車に乗ってアルビへ。雨足が益々ひどくなる中をタクシーを呼んでもらって美術館へ。元司教館のベルビー宮に着いた。なんと12時〜2時30分まで昼休み。隣のセントセシル大聖堂は休館中。料理人としても知られたロートレックのレシピーを出すレストランがあった。
モンマルトルの日々
『ムーラン・ルージュ』などのキャバレーやカフェや娼家に出入りしてパリ風俗とその哀歓を、敏速で正確な描線で、冷酷なまでに描き出した。ついには娼婦の宿に画材一式を持ち込み住み込む。彼女達の内面に残された美しさをロートレックの優しい目は捉え絵筆で再現した。
ドガや印象派や浮世絵版などの影響を受けながらもロートレック独特の画境を開いた。彼は瞬間を絵筆で捉えた画家。
画商ジョワイヤン
ある日、ロートレックはコルモンのアトリエで親しくなったゴッホとゴッホの弟テオとロートレックの子供のころの親友モーリス・ジョワイヤンと再会した。ジョワイヤンは、ロートレックが亡くなった後も彼の作品を管理し、彼の故郷のアルビに美術館を作った。また彼の最初の伝記も書いた。
1891年、27歳のロートレックが「ムーラン・ルージュ」の依頼でそのポスターを制作する。石版画と浮世絵研究の成果を実現できる千載一遇の機会を迎え、一気に制作した「ムーラン・ルージュ」のポスターは大成功を収めた。
翌年から石版画の製作に取り組み、カタログ総数の387点のほとんどを1898年までの7年間に製作している。年平均ほぼ50点の石版画に取り組んだ
ロートレックの恋
シュザンヌはルノワールやドガなど、当時一流の画家たちのモデルをしていた女性で自らも絵筆を取った。私生児として生まれたシュザンヌはやはり私生児を産み画家に育てた。それがユトリロだ。ロートレックとシュザンヌが出会ったとき、ゆりかごの中にいた赤ん坊こそユトリロ。この恋は数年で終わった。
浮世絵との出会い
ベルエポック期の風俗と当時流行したジャポニズムの影響が見られ近代の商業美術の先駆けとも言える。19世紀末に日本芸術がフランスに紹介されると、印象派の画家たち同じくロートレックも夢中になった。彼はロンドンで開かれた歌磨展にも関わった。これはデュバンジャポネという作品。
終焉の地シャトー・ド・マルロメ 1901年
ロートレックはアル中と梅毒に冒されてマルロメの城館で母に看取られその36年の生涯を終えた。
   
マルロメの葡萄の収穫 トゥルーズロートレック伯爵夫人
カルカソンヌ
街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていた女性カルカス (Carcas) が勝利のラッパを吹き鳴らした (sonner) ことに由来する。
列車で2時間ツールーズに戻って乗り換えるのも大変。タクシーの運転手と折り合いがつき1時間半でカルカソンヌへ。

写真提供MOTOさん

難攻不落といわれた巨大な城郭都市。ヨーロッパ最大で2重の城壁も持つ。
?〜6世紀に侵入した西ゴート族が内壁を築いて以来松明をリレーするように建築は各時代で建て増された。17世紀後半から衰退忘れ去られてた。歴史記念物視察官でもあった作家メリメが復元に労をとった。カルメンは書くし偉い。建築家ヴィオレンヂュックが修復。気の遠く鳴るような大工事だったろう。ますます土砂降りに。城壁内Citeは人影もまばら。なにしろ寒い。シベリアンハスキーがずーと私の後をつけてきて階段を走ると負けずに走る。人っ子1人いない城内は彼と私の足音が響くのみ。
ロートレック美術館

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