パリ,燃えてるか?Brennt Paris?
パリ解放への序幕
1944年8月のこと。ノルマンディからベルギーと独仏国境にむけて進撃する米英仏連合軍の前に行く手を塞いでいた阻んだもの。。ナチス占領下のパリだった。米軍は直接パリに突入せず、ドイツ守備隊を包囲して締め上げようとした。一般市民の犠牲も多い小道にはまり込む市街戦を嫌ったのだ。何よりパリの破壊は避けたかった。殆ど狂気のヒトラーはパリに守備隊の最後の一兵まで死守させると決めていた。1944年8月、第2次世界大戦の連合軍の反撃作戦が始まった頃のこと。フランスの装甲師団とアメリカの第4師団がパリ進撃開始の命令を待っていた。
コルティッツ将軍パリ着任
1944年夏。コルティッツ将軍はノルマンディの寒村のゴチック修道院の司令部にいた。そこへ1通の電報が届き東プロシャの総統大本営のヒットラーの元に召還された。パリ司令官にコルティッツに白羽の矢が立ったのだ.ヒトラーは3週間前に起こった暗殺計画から奇跡的に難を逃れてた。がコルティッツはヒトラーに明らかな狂気を視て取っていた。コルティッツは既に『都市の破壊者』として名をあげていた。彼はロッテルダムやセバストポリを破壊しただけだが噂が先行していた。彼はついでにワルシャワも焦土にしたことになっていた。彼がロッテルダムやクリミアで所属していた第22(空輸)歩兵師団は世界初の空中機動師団だった。

Dietrich von Choltitz
コルティッツは1894年バーデンバーデンの軍人貴族の家庭に生まれた。1966年バーデンバーデンの病院で死去。埋葬にはフランス高位の軍人が立ち会った。
司令部
コルティッツは8月9日夕リボリ通り228番のホテルモーリスに置かれた司令部に着任した。このホテルはナポレオン3世のロンドン以来の愛人ミスハワードの館が前身。パリには、大小600以上のホテルそのほぼ全てがドイツ軍に接収された。オテル・リッツはナチスナンバー2のゲーリングや外相リッベントロップご用達。英国王の名がついたジョルジュ・サンクはドイツ陸軍の長老で西部戦線の総司令官ルントシュテット元帥の宿舎。オテル・クリヨンはドイツ西方艦隊司令部(Uボート作戦を管轄する)。パリの高級ホテルはまさに第3帝国の支配下にあった。フランスや周辺国の一般旅行客はほとんど締め出し状態。

ヒットラーの指令
警察隊長はゲシュタボ1200名を引きつれパリを脱出。ただでさえ手薄な兵力は一層貧弱に成った。このときの自分のことしか考えない隊長の姿にヒットラーを重ね、コルティツはパリ爆破の命令無視の決意を固めたと言われる。ヒットラーの本部はパリ爆破の指令を次々打電してきたがコルティッツはのらりくらりとかわしていた。が工兵隊もその命令を傍受していてせっせと爆弾を仕掛けてまわっていた。将軍は工作隊に命じて、工場、記念碑、橋梁、地下水道など、ありとあらゆる建造物に対して地雷を敷設させていた。

リボリ通りを行軍するナチス。

コルティッツの回想
『私はそもそもの最初から誠実な軍人として、可能な限り私の権限の及ぶ限り住民とパリという壮麗な都市を辛い目には遭わすまいと決意していた。』なんとヒットラーは素晴らしい司令官をパリに派遣してくれたものだろう。
パリ市民蜂起
パリ市民の蜂起は8月20日から本格化した。市役所や警視庁の占拠でいよいよ盛り上がりコルティッツはその対応に追われた。断固たる処置をとればパリの大規模な破壊は避けられない。それはすでに撤退をしつつあるドイツ軍将兵への報復を過激化させるは必至。彼はレジスタンスと一時休戦を結ぶなど作戦は迷走。
ノルドリング総領事
中立国スウェーデンの外交官 ノルドリング総領事はコルティッツに面会を求めてきた。 「この街を破壊しなければならないというのは悲劇ですな」とつぶやく将軍。驚いた総領事は警告する。「パリを破壊することは、歴史が許すことのできない罪を犯すことになりますぞ」

ノルドリングは1881年パリに生まれる。父は1870年の終わりにパリに移住し会社を創設。教育を終えた後父の後継者となる。1905年スエーデン副総領事に任命される。弱冠24歳の時だった。父の死後スエーデン総領事となる。彼はスエーデン人ではあるが心情的にはフランス人。母国語よりフランス語に習熟していた。パリ解放後はこの歴史の証人として精力的に活動しその回想をジャーナリストに聞き取らせた。3 245 名の強制収容所送りの囚人を解放した。1962年没。

連合軍は劇的な方針転換。レジスタンス内部は必ずしも一致団結一丸とという訳ではなかった。火力装備ではやはりドイツ軍が勝りそのうえヒトラーはパリの徹底破壊を命じたらしい。左翼のFFIは武器弾薬が手に入りしだい決起すると主張.ドゴール派は連合軍到着まで待つという意見。パリをワルシャワのように廃墟にしたくなかったからだ。レジスタンス首脳が連合軍前線司令部にフィリップ・ガロワ(フランス国内軍少佐)を特派して必死の説得にあたらせた.これが功を奏しついにアイゼンハワー司令官は8月22日夜パリ進撃に同意
米第4歩兵師団パリへ
ドゴール傘下の自由フランス軍切り札ルクレール将軍。第2フランス機甲師団は亡命中に海外で編成されたため兵力装備ともども貧弱。しかも軍備はアメリカの援助品だった。この俄部隊が「パリ一番乗り」の栄誉ある命令を受けた。狂信的に抗戦するSS(ナチ親衛隊)将兵の反撃に手こずった。パリに最初に入った連合軍兵士は作家アーネスト・ヘミングウェイの所属する小隊であったといわれている。
初めは快進撃だったがパリ近郊の近づくにつれ、解放軍を熱狂して迎える住民の「花束とワインの雨」に速度を鈍らされた。そのうえフランスのお嬢さん達のキッスの出迎えもあり進軍は更に鈍った。自由フランス第2師団の進撃遅滞にいらだった米軍首脳は憤激。「わがアメリカ陸軍の力でパリの門を蹴破るのだ」といきまき、米第4歩兵師団にパリ進撃を発令。
ヒットラーの支援命令
パリの情勢に苛立ちを深めたヒトラーは、北部のSS師団や西部軍B軍集団の予備兵力に「パリ占領軍支援」命令を出した。
休戦 8月20日
8月19日、フランス人レジスタントはドイツ占領軍への攻撃を始めた。戦いは終日つづき激しい市街戦となった。狂信的ドイツ兵に容赦なく鎮圧された。思いがけず8月20日コルティッツはフランス人レジスタンスの指導者と休戦に同意し、スピーカーがフランス語とドイツ語で休戦を告げた。
この知らせにヒトラーは「パリを廃墟にせよ。最後の一兵まで死守せよ」と怒り狂った。この狂気の指令は無視された。25日にはエッフェル塔に三色旗がひるがえった。パリは2度、奇跡的に破壊をまぬかれたのだ。
ヒットラーの電話
8月25日なおもヒットラーの専用電話はパリにかかっていて『パリは燃えているか?Brennt Paris?』と叫び続けていた。
自由フランス軍
1949年6月18日ロンドンのドゴールはBBC放送により対独徹底抵抗を呼びかけた。これに呼応して結成された。最初は8000人くらいだったが1944年には40万人に膨れ上がった。ルクレール将軍率いるもとこの自由フランス軍はノルマディー作戦も参加。パリ入城一番乗りも飾った。ロレーヌ十字と呼ばれるシンボルを使った。これはレジスタン内部の連絡にも使われた。指輪やいろいろなものにこのシンボルはつけられた。
凱旋門からノートルダム寺院まで3kmのパレード。200万のパリ市民が参加した。
ドゴールは上官によくぶつかり出世が遅れるもフランス陸軍史上最年少の将軍となった。パリ陥落後はロンドンに亡命しBBCを通じ自由フランス軍を指揮した。恩師でもあるウ゛ィシー政府のペタン元帥への徹底抗戦を呼びかけた.26日午後3時、ド・ゴールは凱旋門を訪れ、次いで無名戦士の墓に花輪を捧げた。

パリ市庁舎での演説

ドゴールの強烈な個性はルーズベルト大統領など世界の指導者とも摩擦を起こした.大統領になってからも暗殺計画は31回も起きた。

ルクレール将軍
1902年ピカルディ地方の貴族の家に生まれた軍人。1944年のルマンデイー上陸作戦のあと8月23日第2機甲師団がの戦車がパリ1番乗りに成功。ルクレール将軍はコルティツ将軍と会見。パリの無血開城に成功した。またミズリー艦上の日本の無条件降伏の際にも立ち会った。ストラスブルグ解放の功により市内に銅像が建立された。 1947年飛行機事故のためアルジュリアで死去。遺骸はパリのアンヴァリッド地下聖堂に埋葬された。ストラスブルグ解放にも功があり現在ここに銅像が建っている。
パリ無血開城
1944年8月25日。 ルクレール将軍のフランス軍臨時司令部モンパルナス駅。ここでコルティツ将軍とルクレール将軍の会談が行われた。パリはこうして無血開城に成功した.コルティツはその場で逮捕された。
民衆の暴走
「なんということか。群衆は捕虜達に虐待を加えている。見境のなくなった群
   衆が怒りをやみくもに行使するのを兵士達も阻止できない。針はふつふつと
   沸き立ち、発酵しつつ、爆薬を用意している。些末な憎悪や陰謀、個々の無
   数の苦悩が蔓延している。」
ジャン・コクトー、占領下日記   
パリ解放の民衆の歓喜がしだいに暴走をはじめた。降伏したドイツ兵に復讐の矢がむけられた。4年間の占領と抑圧のうらみを抱く市民は手を挙げた彼等に襲いかかり乱暴の限りを尽くした。レジスタンスの一部は、勝手な処刑まで始めた。実際に残虐行為にかかわったSS士官やゲシュタポなどは、とっくに撤退していたというのに。さらにほかにもレジスタンス同士の内紛による撃ち合いもあり、騒然たる混乱は何日も続いた。この民衆のリンチで命を落とした犠牲者は数千人とも1万人ともいわれている。
ドイツ人より更に憎まれたのは同朋の裏切り者「対独協力フランス人」。
占領軍に協力した傀儡ビシー政権の民兵や官僚などは、街頭の簡易裁判で次々と「死刑」を言い渡さ実行された。フランス革命の民衆の残虐さを彷彿させられる
ドイツ兵と関係した女性たちは、丸刈りにされ「わたしはボッシュ(ドイツ兵ども)相手の娼婦でした」などと書かれたプレートを胸に市内引き回しされた。戦争中ドイツ将校の愛人だったココシャネルは愛人と共にスイスに逃げた。
奇跡の都
ヨーロッパ戦線で地上戦に巻き込まれ、ワルシャワやスターリングラードやベルリン、ドレスデンのようにに廃櫨となった都市は多い。パリは2度の災厄の危機を逃れて終戦をむかえた。 はじめの危機は1940年6月。ダンケルクでイギリス軍を取り逃がしたドイヅ軍は5月に南に向け攻撃の火蓋を切った。フランス軍も同盟軍のイギリス軍もドイツ軍の電撃作戦で壊滅状態。
ドイツ軍はベルギーから総兵力で襲いかかり、作戦闘始から1O日でパリに入った。フランス政府は6月10月に約200キロ南のツールに逃避し、11日パリの無防備都市を宣言した。東西から挟み撃ちのパリは軍事的価値がないと判断された。パリは以後4年間、ドイツ軍の支配下に置かれる。

パリの奇跡的な解放にはいくつかの幸運な偶然が重なった。

コルティツ将軍が司令官だったこと。パリを破壊から救ったドイツ人として歴史に名を残すことを選んだこと。
彼はヒットラーの狂気を知っていて命令に従わなかったこと.
スエーデン公使がフランス人よりフランス人らしいノルドリンだったこと。
この偶然が永遠の都パリを壊滅から守ったのだ。多くの犠牲者を出して闘ったレジスタンスの活躍も忘れてはならないが。
参考
パリの誘惑 村上光彦 講談社現代新書
ナチ占領下のパリ 長谷川公昭 草思社
映画 『パリ燃えてるか?』

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