SIENA

シエナの宿はトスカーナの荘園主気分を体験したくて丘の上の元男爵の館のホテルを予約した。目一杯観光して夜も更けてからホテルに向かった。あたりは真っ暗でたまたま通過した車に誘導して貰って宿に辿り着いた。葡萄畑もオーリーブ畑も糸杉も押黙て道は教しえてはくれなかった。イタリアの道は夜は照明がない。
街の構造 Sienaの街は人口僅か6万。南北約2km、東西約1.5kmほどの小さな街古い赤煉瓦の壁でぐるりと囲まれている"centro"("centro"のなかには許可のない車は進入る禁止)。1)Banchi di Sopra,2) Banchi di Sotto3) via di Citta`の3つの通りとPiazza del Campoが街の基本的な骨組み。ここから延びた道が壁の外に出るPorta(門)へとつながっている。この3つの道はそのままSienaの3つの丘の形に沿っている。迷路のような曲がりくねった狭い道は、要塞堅固な城郭都市を創った設計者の明確な意志を感じる。
歴史
シエナのシンボル。
シエナの誕生の歴史は、紀元前700年以上前の、ローマ建国の立役者である、牝狼に育てられた王子「ロムルスとレムス」の権力争いに遡る。壮烈な争いの結果、「ロムルス」は「レムス」を殺して、「ロムルス」は自分の名前を取ったローマを築く。レムスの子供「アスキオとセニオ」兄弟は、叔父に殺されるのを恐れて、ローマ象徴の印を持ち出し、トスカーナ地方まで逃げ延び、ここに国を築いた。これがシエナの始まりである。シエナは、「セニオ」の名前をとって、「セナ」と呼ばれたが、その後現在の「シエナ」になった。ローマ時代より金融業や商業で発展し、12世紀の頃にはシエナはフィレンツェと張合う程の都市国家として繁栄した。
PiazzadelCampo 貝殻の形をした世界で最も美しいと賞賛される広場。ここはシエナの3つの丘の合流点、丘と丘の谷間にあたる。広場自体も市庁舎に向かって傾斜しながら下降している。(上の道と広場との落差は2m~8mで、広場自体の上と下の落差は約3m。)形が扇形そして中心に向かって傾斜しているため、まるで巨大な野外劇場に立っているよう。舞台にあたるところには市庁舎とマンジャの塔がそびえ。広場の上を走るバンキ・ディ・ソプラ通りはローマと北ヨーロッパを結ぶ幹線道路のフランチジェーナ街道の一部。元々ここはカンポという名のとおり、街道脇の野原で古くから市が開かれていた。
広場の整備は1347年に完成したが多くの年代記作者の絶賛を浴びたこのプランが誰によるものか不明。中世イタリアの広場は不規則な形が多い。このカンポ広場のようにある程度規則的な形に整備されたものは珍しく、しかも中央に敷き詰められた煉瓦と、その回りを取り囲む青みがかった砂岩による舗装と煉瓦の部分には白い石灰岩による縁取りと8本の放射状の筋が施され、広場を9分割、これはこの広場が造られた当時の政治体制、9君主制を象徴。8本の線は市庁舎の前で1つに集まり、そこに排水口が設けられている。

102mのマンジャの塔

プッブリコ宮殿 Palazzo Pubblico
13世紀末から14世紀に、シエナ政府の中央庁舎として建てられたもの。ここは16世紀中頃まで誇り高き独立国 シエナ共和国だった。
シエナの守護聖人 であると同時に、聖カテリーナはイタリアの共和国全体を守る守護聖人
Santa Caterina 1347-1380

聖カテリーナ│聖ベルナルディーノ│聖アンサヌス

聖カテリーナ 聖女は、カテリーナ・ベニンカーサという、シエナの裕福な染物屋の娘だった。彼女はシエナを襲ったペストの流行により兄・姉を失い、人間の苦難について鋭い個人的意識を養っていた。その幻視体験は7才の時から始まったという。ある日彼女はキリストの花嫁になった夢を見た。カテリーナはいくつもあった結婚の申し込みを断り1363年にドメニコ会第三会の修道院へ入る。反対していた父親も祈る彼女の頭上に白い鳩がとまっているのを見て許した。疫病が流行していたシエナは敵対するフィレンツェへの見栄から大聖堂を造ろうと拡張工事中だった。カテリーナはこれを中止させ疫病で苦しむ人々のため建造費を廻させた。彼女は天然痘の看病で自らも罹災。あばた面になってしまった。生涯を貧困や病人の救済に捧げた。公的な面では1377年に南フランスのアヴィニョンに法王グレゴリウス11世を訪ね、ローマ法王庁の帰還を勧めこれを実現した。この帰還要求運動中、彼女は苦行に励むあまりご聖体以外を口にせず自分の僧室に蟄居。彼女の手紙が公表される毎、教皇、枢機卿、司教、王侯宗教界は揺らいだという。
1380年33才の短い生涯をローマで終えた。
トスカーナの中心に位置するシエナには、トスカーナワインの街でもある。シエナの北側にはキャンティ地区南にはモンタルチーノやモンテプルチアーノといった名醸地がある。その極めつけが、シエナの国立エノテーカだ。エノテーカは城壁のメディチの要塞の中にあり、地下のセラーにはトスカーナを中心にイタリア全土の膨大なワインを展示販売している。バーカウンターもあって試飲してバロ−ロ、モンタルチーノ,マキャバリを買って日本までお連れした。
「ゴシックの街シエナ」 のシンボルの一つが、シエナのドゥオモ(大聖堂)だ。ゴシック教会として世界でも有数の端正さ。
パリオ
はコントラーダといわれる自治組織対抗。中世から脈々と続くシエナ市街を17分している。名前はワシ、毛虫、。。etcそれぞれのコントラーダが地区内に本部や教会をもち、相互扶助と奉仕の精神で組織を支えている。毎回パリオは、順番とクジ引きで選ばれた10コントラーダが参加。パリオの時には煉瓦敷きの部分は人で埋まり、回りを取り囲む石敷きの所に土が入れられ競馬競技が行われる。なかなか迫力ありそうな祭り。1492年夏、「中心に向かってゆるやかな勾配をなしているこの扇形の広場」でパーリオ(競馬)の練習をしていたのは、若き日のチェーザレ・ボルジアだった。

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