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アメリカの弟から映像を送ってきました。ブルゴーニュのホテルでリヨンから北上して来た弟夫婦と落合いました。義妹の運転で世界遺産2つを回りました。ヴィデオは臨場感がありますね。来年は技術を向上させ私も撮ります。ブルゴーニュには素朴で美しい多くのロマネスク建築が残っています。丘の街ヴェズレーにも行きました。スペインのサンチャゴ巡礼路としてまた古くは十字軍はここから出発したとか。。。この村の中心地に立つのが、9世紀に建てられた聖マドレーヌ教会。フランス最大級のロマネスク様式で1979年世界遺産に登録。 |
| シトー会とは | |
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その誕生の歴史的背景。当時のヨーロッパ修道会の中心であったベネデイクト会内のクリュニュー派。彼等はローマ法王や諸国王、貴族達と深く結びついた。ヨーロッパ中に 1500 もの分院を作ったといわれる クリュニーの大修道院には 富が集積した。壮麗な教会の建築、巡礼の組織化、十字軍遠征等に本来の宗教者の立場を超え熱心に推進した。巨大な修道院王国となり王侯をも凌ぐ地上の権力に溺れた彼等は反対派の墓を暴くまでに退廃した。この腐敗に対する反動がクリュニュー派内部から生まれた。
聖ロベルト 聖アルベリコ 聖ステファノがシトー修道会の創立者。その1人聖ロベルトは1018年シャンパーニュ州のトロアの近くの貴族の家に生まれた。15歳の時、クリューニー修道院に入り若くし て修道士になる。この頃ではクリューニー修道院における修道士の生活はだんだんと贅沢で華美になっていった。 1075年聖ロベルトはより厳格に「聖ベネディクトの修道院戒律」を守り抜くことを熱望しモレスムに新修道院を創立。 |
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創立者聖ロベルト
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ロベルト僧院長の聖徳はあまねく広まり修道志願者が殺到した。寄進もうなぎのぼり。いつし かモレーム 修道院もまた奢侈に流れて行った。創立20年経ずして、モレスム修道院も「聖ベネディクトの修道院戒律」に関して修道士間の見解の相違が大きくなった。内部抗争の果て僧院長ロベルト自ら今や栄華の巣となった修道院を出た。20余名の修道士はロベルト僧院長の後に従った。彼等は1098年はじめ清貧を愛し、沈黙のうちに祈りと労働の生活を送ろうとブルゴーニュの深い森の奥深く分け入った。庵の地を探し求めた果てに泉のほとり葦(シトー)の生茂る地に彼らの簡素な庵を建てた。彼らは聖ベネディクトの原初の精神に立ち返り、その戒律を厳格に実施していった。やがて彼等はシトー派と呼ばれるようになる.歴史のうねりに揉まれながらも現在、シトー会は全世界に分布し、男子修道院88、女子修道院52を数え、会員数も5000名以上。トラピスト会ともいう。 |
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経済的自立を原則としていたシトー派。農地開拓に適し、都市とも程よい距離のある低地の森や川、泉の周辺に修道院を建設した。彼等はグランジェと呼ばれる拠点を作り、所領をグランジェ単位に小分けした。なかなか効率よい農業経営だ。そのまわりに耕地、牧草地、ブドウ園、森林、河川等がとりまくように計画した。農業や牧羊等を行った。特にブルゴーニュの銘醸ワインの多くはシトー会のもの。西欧の近代的農場経営のパイロットファームともなった。卓越した技術水準を持つ彼等は修道院というより職能集団だった。フォントネー修道院はまたフランスの製鉄の先駆けとなった。ここで製作される鉄の農耕機具はフォントネーに多大な収益をもたらした。 |
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修道生活
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彼らの生活はまさに粗衣粗食。共同寝室における寝快ち悪そうなござ。鉄製の一個のキリスト十字架像。鐘も絵画もステンドグラスも彫像もない簡単な教会。床は踏み固めた土。ただ1体の美しい聖母マリアの像がやけに優雅。祈りと労働に明け暮れた清浄で純潔な精神生活。こ結果的に欧州の森開墾を進めるのである。「祈れ、そして働け」「働かざるもの食うべからず」やがて、この労働倫理が資本主義の進展に繋がって行った。 |
| フォンテネー修道院 | |
| Abbey de Fonteney | |
| この池の鱒は毎年ブルゴーニュ候に献上された。 | |
| ブルゴーニュのホテル | |
| Chateau de Gilly | 元シトー派修道院。食堂は元は聖堂でした。私の定宿で〜す。(言葉にイースト菌を入れました) |
| 世界遺産 | |