テレジアカバリス(1773-1835)テルミドールの聖母

この情熱的な容姿の美女は生涯で3度呼び名が変わった。最も有名なのはテルミドールの聖母。
その生涯
フランス人銀行家フランソワシャルルとスペイン人の母親の娘として生まれる。1785年パリに教育の仕上げとして送られる。もう既にこの時代の娘としてはかなり豊富な恋愛体験を重ね1788年16歳の若さで年老いた貴族ド・フォントネ侯爵と進んで結婚。結婚により得る自由と爵位と宮廷の逸楽に憧れたため。領地で過ごす。Fontney aux Roses翌年フランス革命が起き1792年双方の合意で離婚。
ボルドー時代
山岳派

vs

ジロンド派

18世紀末のボルドーは繁栄の極みにある美しくまた享楽的な街だった。革命の祭典で自由の女神に扮するなどして愛国者を気取った。ボルドーはまた穏健ブルジョワージーのジロンド派の拠点だった。ジロンド派に勝利した山岳派は彼等の失政による危機から共和国を救うため非常手段にでた。それがいわゆる「恐怖政治」で国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していき次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派。
タリアン

この時派遣議員としてやってきたタリアンと出会い愛人関係になる。タリアンはベルシー侯爵の使用人の子としてパリに生まれ、侯爵の後援で教育を受けて、弁護士の書記となった。 当時の派遣議員は絶大な権力を握っていたので、身の保全も兼ねてタリアンの愛人になった。テレーズに骨抜きにされタリアンは求められるままにテレーズの友人である反革命容疑者を処刑リストからはずした。タリアンと結婚。テルミドールという名の娘をもうける。テレジアが去った後国外に出て熱病で片目を失明して、。王政復古で追放され、貧窮のうちに寂しく世を去 った。

ロベスピエール 1758年 - 1794年

アラス生まれ。貧しい苦学生で秀才の誉れ高く。アルトワ州高等法院で弁護士をしていたが、1789年、三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じジャコバン派内の山岳派に属しジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。
サン・キュロットの支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放し権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治を断行し反対派をギロチン台に送った。さらに左派エベール一派と右派ダントン一派を粛清して、自己の理想とする独立小生産者による共和制樹立を目指した。刑死までの最後の3ヶ月はともかく、弁の立つ彼は、公安委員会のスポークスマン的な役割をしていた。清廉の人と呼ばれ革命に命を捧げたが彼のエキセントリックさはまた多くの人の命を奪った。愛弟子の革命家を次々骨抜きにするテレーズを目の敵にした。
ロベスピエール失脚後
リヨンの虐殺者フ−シュはあまりの極左的な政策と過剰なテロルが原因でロペスピエールと対立。パリに召還され、厳重な監視下に置かれる。生命の危機を感じた彼は、反ロベスピエール派のタリアンやバラスらと共謀し、クーデタの同調者を集めて、テルミドール9日のクーデタを起こす。ロベスピエール、サンジュストらは翌日、断頭台へ上った。
5人総裁時代

総裁バラス

平 民出身で粗暴なタリヤンが政権に長く留まれないことを見抜くと、今度はバラスの愛人となって旧貴族出身の総裁バラスのサロンを取り仕切った。5人総裁の一人となったバラスは武力を利用した巧みな均衡政策で、左右勢力に対抗した。彼 は総裁職を保持し続けた唯一の人物で、その後の五年間政府に君臨。リュクサンブール宮殿に居を構えて王のように豪勢に暮らし、退廃的な彼の”宮廷” にはあらゆる悪徳が集った。このときの同僚?バラスのハーレムにはマルティニアック島出身のクレオールローズボーアルネ元子爵夫人がいた。共通点の多いローズと彼女は生涯通じて友好を結んだ。このローズこそナポレオンの妻となるジョセフィーヌ皇后である。バラスは第2のマリー・アントワネットとまで浪費癖のあるテレーズに困り果て、革命成金のウヴラールの元に厄介払いをした。
時代風潮
ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとした。 巷では恐怖政治の元で投獄されていた容疑者が釈放され街頭では、ミュスカダン(洒落者)とメルヴェイユーズ(伊達女)などと呼ばれる異様な格好をした若者達が現れた彼らは「執行権」と呼ばれる棍棒を持って、サン・キュロットを見るとそれで乱暴した。
女性の服装も一気に開放され劇場や社交界も再開された。テレジアが社交界の花形になった。 

ファッション リーダーテレジアが身に着けたギリシア・ローマ風のほとんど下着風の薄いドレス、ショートカットのヘアスタイルは瞬く間に広がった。ギロチン用に牢獄で貴婦人達髪を短くカット。テレジアのサロンには、このような挑発的なファッションに身を包んだ人々が集まり刹那的な享楽の日々を過ごし迫りくるギロチンの恐怖を忘れようとした。彼女は気前良く乳房を丸出しにした。テレジアはさながらトップレスサロンを主宰した。
数字としての恐怖政治
1793年3月17日から1794年7月までに公式記録に載った処刑者は19,723人
内訳
ナント 3,548名
ヴァンデの反乱 8,674名
リヨン、マルセイユ、ツーロン 3,158名
南部 910 名
外国に侵入された国境 551名
北東部の国境 243名
パリ 2,639 名

    合計 19,723名

しかし、ツーロンやヴァンデなどを中心に裁判なしで処刑された人や牢獄で死んだ人が実際の数字は少なくても26万人。1793年3月から1794年6月までの1年4ヶ月の間にパリで処刑された人は1251人で、残りは1794年6月からまでのたった2ヶ月間で処刑された。1ヶ月で700名強。一日20名以上。まさにフランス全土が血に染まった。
テルミドール九日−−国民公会

「今、検察の人が帰りました。明日、革命裁判所に出頭するようにとのことです。つまり断頭台に登りなさい、と言うことです。昨夜、私はロベスピエールがいなくなり監獄の扉が開かれた夢を見ましたが、どうやら現実とは違うようです」

獄中からのこのテレジアの手紙を受け取ったタリアンはに大いに興奮し、バラスやコロー・ブルボアに誘われていたクーデターを決意し7月26日「僕はいよいよ実行する。」と返事を書く。タリアンは演説名人サンジュストの発言を封じこめ劇的な逆転劇で勝利した。7月27日、決死のクーデター、テルミドールの反動は成功し、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。

シメイの聖母 人生の終章
波乱に満ちたテレジアの人生の終幕は静かな30年だった。1802年タリアンと離婚1805年若きカラマン子爵と再婚恋多き女から良き母に華麗に変身。12人の子供に恵まれ1835年シメイの城に埋葬された。シメイはブリュッセルの南約100kmビールの名産地。

激動の時代を巧みに泳ぎきったテレジアは言った。『人生は楽しまなくちゃ』運に乗る機を見抜く回転の早い頭脳。類い稀なる美貌をフル稼働し恐怖時代に結果的に多くの人をギロチン台から救った。享楽的なテレジアに深い政治的信念があったとも思えないが。。。

Chimay城
参考 藤本ひとみ『悪女の生まれる時』

TOPに戻る