鉄と大理石で出来た王は超美男

フィリップ4世 Philipe IVle Bel1268年 ~1314年
フランスの王(在位1285年 - 1314年)。眉目秀麗さ故『美男王le Bel』と称される。フィリップ4世は中央集権化を図る為軍人や貴族でなく法曹家を起用し財政や法制の改革を行った。王権強化と領土拡大、財政増収に成功。近世国家・絶対主義王権の基礎を築く。だが悩まされ続けたのが財政難であった。いつもいつも戦費調達のため非道なことをやってのけた。だが世論を結構気にした点近代人の要素も持ち合わせ巧妙。性格は、合理的だが貪欲で冷酷無比。ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を確保するために妻のジャンヌを毒殺したという噂もあった。その冷酷さから『王は人間ではない大理石だ』とまで言われた。鉄王とも言われる。
フランドル併合の野心
1297年 
イングランド王領のギュイエンヌをめぐってエドワード1世と戦った。
1300年 
ブルージュにおいて市民の反乱が起こり、フランス人が虐殺した。
1302年 
金拍車の戦い。騎士団を中心とする優勢なフランス王軍は、市民の歩兵が中心のフランドル軍に敗れる。
その後も両者の抗争は和睦と戦闘を繰り返しながら、フィリップ4世の死没の1314年まで続いた。 これが百年戦争の最大の要因となった。
ユダヤ人の追放
1306年にはフランス中のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。フィリップ4世は財政難解消のためフランスで金貸し業を営んでいたユダヤ人を逮捕し、多くの財産を手に入れる。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。
三部会開催 
1302年、フランス王フィリップ4世はパリのノートルダム大聖堂に聖職者・貴族・都市(平民)それぞれの代表からなる三部会を招集した。教皇と事を構えるにあたり国民の支持を得て戦費収入を確保するためでもある。これがフランスの身分制議会の始まりとなる。百年戦争終了後絶対王政が確立され始めると三部会の意義が薄れ、1614年にひらかれたのを最後に開催されなくなる。ルイ16世は貴族層に対抗する窮余の策として170年振りに三部会を招集。これが平民層を大きく政治参加へ駆り立て、結果的に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命へと発展した。
フアナ1世 (ナバラ女王)
シャンパーニュ伯アンリ3世(ナバラ国王エンリケ1世)とアルトワ伯ロベール1世の娘の間に生れる。兄が夭逝したためファナが継承者となる。1274年に父王の死去により王位と伯位を継承した。幼い女王に母親の摂政、さらに相続人の少なさときてナバラ国内外の敵に付け込まれることになる。そこで母子はフランス王フィリップ3世に庇護を求めた。庇護の一環かフィリップ3世は1284年フアナと長男(後のフィリップ4世、ナバラ王としてはフェリペ1世)と結婚させた。結婚後は共同統治を行ない半世紀ほどナバラとフランスは同君連合となった。女王は優れた文芸保護者でもあり、ナバラに大学を創設した。1305年にフアナ女王は死去しシャンパーニュとナバラはフランス王家に併合される。フィリップとの間に、後のルイ10世、後のフィリップ5世、後のシャルル4世、イザベル(イングランド王エドワード2世妃)らをもうけた。女王の死の状況が不可解だったのでフィリップ4世に暗殺された主張する歴史家もいる。
教皇との対立
レジスト(法律顧問)のお智慧拝借するもフィリップ美男王自身も狡猾な法律家だった。王領の拡大と王権の強化に専念したフィリップ4世の治世の最大の事件はローマ教皇ボニファティウス8世(在位1294〜1303年)との対立だった。好戦的な王は戦費調達のために教会の課税を行い、教皇至上主義を掲げる教皇と激しく対立した。美男王が聖職者にも課税したことから教皇は1296年に回勅「聴け、最愛の子ら」を出した。最愛の子?フランス国王フィリップ4世とイングランド国王エドワード1世にお説教。これに対して美男王はフランスからの金貨の持ち出しを禁じて教皇の収入を絶とうとした。1296年には教皇庁への献金を禁止し通貨改鋳を行う。あろうことか教皇を経済的に締め上げ作戦に出た。
アナーニ事件
1302年

国内の支持を得るために手回し良く「三部会」と呼ばれる議会を創設してた。これによって国民意識を高め、汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に反発。世論の支持を得たフィリップ4世はついにはギヨーム・ド・ノガレに命じローマ郊外のアナーニの別荘に滞在中の教皇を逮捕。教皇は恥辱に耐えきれずまもなく憤死した。

ギヨーム・ド・ノガレ

1260年 〜1313年

トゥールーズ大学の法学教授を経て、1295年にフィリップ4世の政治顧問となる。1302年には大法官へと昇進する。その参謀として常に暗躍した。1303年9月、アナーニ事件を引き起こして当時のローマ教皇・ボニファティウス8世を憤死に追い込んだこと、1307年にテンプル騎士団を解散させてその財産を没収したこと、1309年にローマ教皇をフランス南部のアビニョンに移したこと(アヴィニョン捕囚)は、全てノガレが黒子よろしくグランドプランを描いた。しかしアナーニ事件の翌年、ローマ教皇に事件の首謀者と見なされて破門され破門を解かれぬまま1313年に没した。アナーニ事件での教皇への告発文とテンプル騎士団への告発文は文面は同じだった。
教皇のバビロン補囚
 
アナーニ事件で教皇の権勢は落ち、王権がますます増していく事になる。1305年美男王はローマ教皇選挙に介入しフランス人教皇クレメンス5世を誕生させた。1309年にはフランス国内のアビニョンに引っ越しさせた。以後ローマ教皇は77年までこの地にすみ、フランス国王の影響下におかれた。この「教皇のバビロン捕囚」によって、ヨーロッパ各地の君主に優越した地位にあったローマ教皇の力は衰退することになった。
教皇クレメンス5世
ヴィエンヌ公会議は、1311年にリヨンに近い都市ヴィエンヌ行われた。教皇クレメンス5世はよってフランスのフィリップ4世の強い主導でテンプル騎士団の解散を命令。自分を教皇にしてくれたフィリップ4世の意向に従った。自分の健康状態だけに心悩ませ無能で頑固な教皇。最終的にはテンプル騎士団を見捨てた。
テンプル騎士団解体
13日の金曜日
1307年10月13日(金曜日)早朝、総長ジャック・ド・モレーを含むフランスにおけるテンプル騎士団のメンバー3000人を一斉に逮捕した。同日同時刻一斉検挙は史上最大の捕物帳だった。これが13日の金曜日が忌み日の謂れだ。13世紀に完成した異端審問方式はインチキ裁判で拷問付き。せっせと拷問委託業務?に励んだのがドミニコ会とフランシスコ会。この時の拷問は熾烈を極めテンプル会士138人のうち36人が拷問で死んだ。美男王は教皇クレメンス5世を操りテンプル騎士団解体に追い込んだ。汎ヨーロッパ的な騎士団の存在が、中央集権を目指す王権の邪魔だった。騎士団の資産とその金融システムの強奪が目的だった。テンプル騎士団のエロティックな入会儀式での男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴された。「騎士団はバフォメットと呼ばれる魔神を崇拝し、団員の中には公然と黒ミサを行うものがいる」と告発した。
テンプル騎士団の歴史
1118年
 
シャンパーニュの貴族、ユーグ・ド・バイアンらが創立した。聖地エルサレムへ赴く巡礼者たちを異教徒から守った。噂はエルサレム王に届きは王は彼等にエルサレムのソロモン神殿(テンプル)跡を宿舎として与えた。シトー会大修道院長のベルナルドゥスは彼らを聖俗一致の理想像と讃え、修道会としての公認を働きかけた。エルサレムの1099年の異教徒の襲撃では略奪の獰猛さは狂犬並。聖地の全住民7万人がユダヤ人とイスラム教徒、子供を含む男女が3日3晩に亘る大虐殺で死んだ。
剣と鍬
騎士団はを持って十字軍や巡礼の用心棒も勤めた。一方世界中のコマンダリー(騎士団自治領兼修道院)の土地をを持って耕した。シトー会を手本にした。
1128年 
トロワ公会議
教皇臨席のもとキリストの貧しき騎士にして、エルサレムなるテンプル騎士修道会が正式に発足した。9名で細々と活動していた騎士団には加入者が殺到し、権力者からは土地金品の寄進があいついだ。聖地巡礼者の用心棒だが
彼らの真の目的は古代に失われた聖遺物を捜すことだった。ローマ教会からの宗教的な軍事団体と認可されると騎士団は一気に国際組織となっていった。最盛期にはヨーロッパ中の貴族の子弟が入団した。その際寄進された金品や不動産により騎士団の財産は膨れ上がった。
1139年
 
教皇インノケンティウス2世の大勅書により各地の司教団から自由になり自前の司教を置くことが出来た。教皇はまた教会を建築する権利も彼等に与えた。この特権はその後存分に行使され 1170年から100年間の間にフランスだけで80以上の大聖堂とおよそ500の小修道院が建てられた。騎士団は東方の貿易で莫大な富を築き、当時の文化的リーダーとしての役割も果たしていた。
1312年 
教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定。フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった。
騎士団の壊滅
テンプル騎士団は免税など(この税の免除が許された教団は他にはシトー会しかなかった)多く特権を与えられ他の教団の妬みをかった。フィリップ美男王の過重な税の取り立て業務を騎士団が代行し余分に悪評を買った。国際銀行でもありパリの本部は数度に亘り国王の金庫を預った。
美男王の見果てぬ夢
フィリップ美男王は自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは2大騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併。自らがその指導者の座について聖地を再征服する。その後自らのカペー王朝が世々にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な権力を持とうとい夢であった。随分壮大なかつ虫のいい夢だ。だが即座にテンプル騎士団から拒絶された。
聖ヨハネ騎士団
 
十字軍以前の11世紀後半、エルサレムにできた修道士運営の病院が起源。1113年に独立の修道会として認められた後、テンプル騎士団に刺激されて軍事組織化した。聖ヨハネ騎士団のほうはその後も生きのびた。小アジア沖のロードス島に本拠をおき、馬から船にのりかえて、海上でイスラーム勢力と戦い続けたのである。1522年オスマン帝国にロードス島を奪われる。マルタ島に移り、ナポレオンに降伏する1798年までここを守った。領土を失った現在でも「マルタ騎士団」の名で約1万の会員を擁し、元来の業務である医療活動をおこなうNGOとして存続している。世界の93ヶ国と外交関係を持ち、国連にオブザーバー加盟もしているという。
テンプル騎士団
テンプル騎士団はたんなる聖地の用心棒にとどまらず、欧州随一の「多国籍企業」に変貌。かって十字軍遠征の膨大な戦費の出入を一手に握った。西欧から中東まで「所領9000ヶ所」を有し、そのネットワークを生かした本格的銀行業務に乗り出した。フランス王は騎士団員に財務官を兼任させ国庫のカギを預けていた。こういう金融活動が高利貸を嫌う当時の風潮や修道士の3大誓願「清貧・貞潔・服従」に大きく離反。肝心の軍事力ではさっぱりでエルサレム失陥以後はもはやイスラーム勢力に対抗するすべはなかった。あろうことか暗殺教団アサシン教団とも手を組んだ。彼等は大麻を使って殺人するのでこれがアサシネ(暗殺)の語源となった。その一方で味方の聖ヨハネ騎士団との反目は深まり、1254年には王国の首都アッコンで市街戦をくりひろげる有様だった。それから40年足らずで聖地国家は滅びた。 
テンプル塔

一方、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのためフィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の略奪を計画したともいわれる。水際立った一斉検挙の日なんと国王自らテンプル教団の金庫に入り鍵を奪った。まるで銀行ギャングの仕業だ。
テンプル塔は騎士団の本拠地。しばしばフランス国王の金庫を兼ねた。騎士団壊滅後は曲折を経てフランス王家のものとなりルイ16世の一家が幽閉用に再利用?された。ナポレオン1世が旧体制のシンボルと忌み嫌い取り壊させた。
総長ジャック.モレーの火刑
最初教皇はテンプル騎士団を救おうと試みた。委員会を設置し、再調査を行わせていた。騎士団の最高幹部達はいったん死刑の判決を受けてはいた。しかし再調査後も下された最終判決は「終身刑」であった。ここで劇的な事件が起こる。
判決が下ると突如総長のジャック・ド・モレーが立ち上がった。堂々と無実を主張したのである。大幹部のジョフロワ・ド・シャルネーも後に続いた。驚く群集の前で総長は宣言。
「我々は無実である。騎士団は神聖で、規則はカトリックの教義に則ったものだ。我々の唯一の罪は、拷問に耐えかねて嘘の自白をしてしまったことだけである」。この告白を否定する『再堕落』で火刑は決定した。
美男王は1314年騎士団の資産の没収を終了。口封じのため四人の指導者の処刑を指示。ジャック・ド・モレーらはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。 国王自ら火刑台へ点火した。なるべく苦しんで死ぬようにと火はゆっくりと燃やされた。しかし炎のなかで二人は最後まで神を称え、騎士団の神聖さを主張し、無実を叫び続けた。『いまわの際に異端者がこんなことをするのだろうか?』この惨劇の全てを観ていた群集達は口々に騎士団の無実を叫びはじめた。フィリップ4世を呪う声が刑場に満ちた。そして火が消えると我れ先へ火刑台に殺到。警備兵を押し倒し灰の中から今や殉教者になった総長らの遺骨(聖遺物)を手に入れようした。

ジャック・ド・モレーは炎に包まれながら「1年以内に教皇と王と宰相ノガレ、そしてマリニーを神の法廷に呼び出してやる」と呪いをかけた。それから1ヶ月後、教皇は不思議な病気で悶死。
王は森で狩をしているときに、靄の中から頭に光輝く十字架を付けた不思議な鹿を見た。その直後体が麻痺して落馬しその数日後に死んだ。宰相ノガレは、悪臭を放つ奇怪な蝋燭の側で失神しているところを発見され、その翌日に死んだ。
フィリップ4世のもとでインチキ宗教裁判をしたマリニー大司教は汚職がばれて、絞首刑となった。
名誉回復
テンプル騎士団については19世紀にいたるまで彼らの異端という汚名はきせられたままだった。1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに異議を唱えた。最終的に1907年にドイツの歴史学者ハインリッヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた」ことを明らかにした。
カトリック教会の公式見解
テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。また、ヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。
神話となったテンプル騎士団
歴史の闇に消えていったテンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿にこじつけている。エルサレム神殿の跡地から聖杯をあるいは聖櫃を、あるいはイエスの十字架を発見したetc。また多くの団体が自らのルーツをテンプル騎士団と結びつけその神秘性の後光効果を狙った。代表的なものはフリーメーソン。彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始めさえした。伝説はテンプル騎士団がスコットランドで存続したというもの。ここからスコットランド儀礼のフリーメーソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメーソン団が生まれた。さらに『ダ・ヴィンチ・コード』など多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている。実際テンプル騎士団の後継者を名乗るカルト集団は世界中で100を数えるそうだ。
王女の不倫 3人の嫁達
1314年フイリップ美男王は息子の嫁3人を不倫の疑いをかけ逮捕した。この陰惨な事件は美男王の特異な性格をよく表している。佳人イザベルとまで謳われた王の娘はフランスの牝狼に変貌。イザベルは英国史にその名を刻まれる残忍な王妃だった。この極悪父娘の共同でっちあげ陰謀と仮想するのには根拠も足りないが。。
昔日の美女たちのバラード
フランソワ.ウ゛ィヨンの詩より
また同様にどこにいるあの王妃
総長ビュリダンを袋に詰めて
セーヌ河に投げよと命じた女王は?
いったい何処にあるんだ去年の雪は?
美男王の息子後のルイ10世の妃マルグリットは1312年頃から、セーヌ河畔の通称「ネールの塔」で、夫の不在時に学生や騎士たちを連れ込み、不貞をはたらくようになった。夫の兄弟の妻たち、ジャンヌとブランシュの姉妹も誘って浮気を楽しんだ。夫も宮廷もこの大胆な行為に長く気づかなかったが、1314年にルイの妹、イングランドからエドワード2世妃イザベルが一時帰国したことから発覚。イザベルは英国王室で夫エドワードの同性愛嗜好と不実で不幸な結婚生活を送っていた。自分の反エドワードの活動を支援するよう頼みに来たのだった。義理の姉妹たちが宮廷を抜けてどこかへ出かけていくのをイザベルは逆探知。イザベルの密告により、不貞の顛末が明らかになると、ことは宮廷を揺るがす大醜聞となった。
マルグリット・ド・ブルゴーニュ

1290年 〜 1315年フランス王ルイ10世の王妃。カペー家分家のブルゴーニュ公ロベール2世とフランス王女アニェス(ルイ9世と王妃マルグリットの娘)の娘。
1305年、従兄で当時ナバラ王となっていたルイと結婚。1314年には2人はフランス王および王妃にもなった。

マルグリットは事件発覚後陰気なガイヤール城へすぐさま幽閉された。事件のさなかフィリップ4世が死去。夫がルイ10世(喧嘩王)として即位するが彼女はそのまま幽閉された。ルイとマルグリットには1311年生まれの一女ジャンヌがいたが、姫が嫡出かどうかが強く疑われた。サリカ法を根拠にジャンヌはフランス王位継承者からははずされ、ナバラ王位のみを継承した。
1315年マルグリット王妃は劣悪な獄中で手荒い扱いを受け死去。20代半ばでの死であり夫によって毒殺されたと噂された。

ガイヤール城

ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュ

(1293年〜1330年)

ジャンヌだけは夫フィリップ5世(長身王)との良好な関係でパリに帰還を許されフランス王妃にもなった。ソルボンヌ大学内のコレージュドブルゴーニュは彼女にちなんだもの。

ブランシェ.ド.ブルゴーニュ

シャルル4世美男王と結婚。教皇ヨハネス22世により結婚は無効とされポアテエの修道院に追いやられる。ブランカ姫は幽閉されたまま果てる。恋人騎士アーネィ兄弟は生きたまま皮を剥がれる極刑で死んだ。

カペー王朝の終焉

成人に達しえた息子3人はみな相次いでフランス王となったが、男系は途絶えた。こうして300年の長きに亘って栄えた王朝は断絶した。また娘イザベルはイングランドのエドワード2世の王妃となり、のちにイングランド王家がフランス王位を請求する百年戦争の遠因となった。ナバラ王位はルイ10世(ナバラ王ルイス1世)の孫フアナ2世によって継承された。

フィリップ4世と子供達

フィリップ美男王は封建時代から絶対君主制移行の過渡期に生を受けた。王の手は多くに人の流した血にまみれている。妻も殺しユダヤ人を迫害しテンプル騎士団を完膚なきまで叩きのめした。教皇も憤死させ嫁3人をも悲惨な人生に追いやった。祖父聖王ルイとは似ても似つかぬ非道さだ。
参考
テンプル騎士団 レジーヌデベルヌー 文庫クセジュ
テンプル騎士団の謎 レジーヌデベルヌー 創元社
パリ歴史探偵術 宮下志郎 講談社現代新書
L'HISTOIRE DVD 『ブレーブハート』
Wikipedia クロニクス百科事典

TOPに戻る