悲しい戦国の姫

アンリ4世妃マルゴ
宗教戦争下の血なまぐさい陰謀の渦中に咲いた1輪の花。。。色情狂と烙印されたマルゴ公妃。
1553年〜1615年
アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの娘。カトリーヌ・ド・メディシスの娘、フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の妹であり、ナヴァル王アンリの妻。通称マルゴ公妃。(パリ郊外St-Germain-en Layeに生まる-Parisで没)大ラルース辞典はあっさりと女性の色情狂ナンフォマニーと片づける。不行跡により夫アンリ4世より離婚される。。。とバッサリ。

幼い頃から際立つ美貌とギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、宮廷の華として誰もが憧れる絶世の美女として成長していった。名高いアレキサンドルヂュマの小説でもラモル伯爵とか天文学的数字の愛人がいたようだ。。2人の兄との関係も巷間に取沙汰された。限りなく淫蕩な宮廷に育つ。

ノストラダムス
マルゴの母カトリーヌはトスカナ大公フィレンチェの富豪メディチの娘。カトリーヌをフランスで待ち受けていたのは生やさしいものではなかった。夫アンリ2世には20才年上の愛人ディアヌがいて事実上の王妃として君臨していた。彼女の長い屈辱の日々をノストラダムスの予言は見事に言い当てる。
王母カトリーヌドメディシス

彼女は宮廷をイタリア人で囲みフランスにルネッサンスの文化を持ち込んだ。彼女がフランスに香水、占星術、アイスクリーム、美しいイタリア庭園の他に持ち込んだもの。。。メディチの毒殺だった。 アンリドナヴァールと娘マルゴの結婚式の二カ月前のこと。急死した新郎の母ナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレはカトリーヌに毒薬あっぷりの手袋を贈られた。フィレンツェ人のルネの調合した。カトリーヌに毒殺されたという噂は根強い。恐ろしい女に変貌させたものは妻としての長い忍従の暮らし痛めつけられた自尊心どろどろとした政治の沼に黒く咲くその他諸々の苦悩という花。
マルゴの結婚

宗教革命に揺れる16世紀のフランス。カトリックとユグノー(プロテスタント)の対立は深刻化していた。ユグノーの旗印である南仏のアンリ・ド・ナヴァールと娘マルグリット・ド・ヴァロワを政略結婚させた。二人の関係は冷えきったものでまるごとは別居。子供もいなかった。アンリ4世が王位につくと後継者問題で再び内戦状態にならないためにも、きちんとした後継者を残すことを提言した。アンリ4世はマルグリットとの結婚の無効を認めてもらうことで、すでに3人の子供を生んでいる絶世の美女ガブリエル・デストレを正式な妻に迎えたいと望んでいた。側近は反対したがガブリエルが1599年4月に急死したことで問題は立ち消えとなった。同年、マルグリットとの結婚が無効であったという判断が下され、アンリ4世はメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚した。二人の間にはさらに6人の子が生まれている。
アンリ4世(Henri IV de France)

(1553年~1610年)ブルボン朝の初代フランス王。ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌを父に、ナバーラ女王ジャンヌ・ダルブレを母にポーで生まれた。母の影響を受け宗教的にはユグノー。プロテスタント派(ユグノー)のリーダーとしてユグノー戦争を戦ったが、王位についた後にカトリックに改宗してナントの勅令を発布。にんにくと常食の山羊の匂いをぷんぷんさせる新郎を毛嫌い。愛のある結婚ではなかった。マルゴも凄いがアンリも歴代フランス王でも1〜2を争う恋多き王。互いに愛人を持ち合う夫婦だった。後に宗教戦争を終結させパリの街の整備にも着手し歴史上名君と云われる。アンリ4世は賢明で有能な君主であった。さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価され、絶大な人気を誇るようになった。内戦で疲弊したフランスを立て直すために国家経済の再建、農業の促進、開墾地の拡大、公共事業の活発化などの政策をおこなわせた。さらに教育機関の拡充、街道の整備、森林の保護、橋や運河の整備を推し進めた。また、セーヌ川にまたがるポンヌフ橋の建造を中心とした首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造した。さらにアンリ4世はあらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動をおこなわせた。これはナポレオン・ボナパルトが禁止するまで歴代の王によって継承された政策となった。北アメリカの探検に着手。これは後にカナダにフランスの植民地が築かれる基礎となった。1610年5月14日、パリでフランソワ・ラバイヤックという精神異常者に刺し殺された。王はサン・ドニ大聖堂に埋葬され、未亡人マリーは息子(ルイ13世)が独り立ちする1617年まで摂政として国政を見ることになった

結婚式の惨劇
1572年8月歴史に名高い「サン・バルテルミの虐殺」の悲劇が始まった。
ルーヴル宮殿では、壮麗な宴が開かれていた。聖バーソーミューの鐘を合図に結婚式に集まったユグノー教徒に襲いかかる。カトリック派のギーズ公の兵が改革派貴族を襲い虐殺。この虐殺はフランス全土で数週間続いた。コリニーら多数を虐殺した。市内でも改革派が襲撃され、犠牲者の数は3000〜4000人といわれる。
新郎アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。カトリック派のギーズ公の兵が改革派貴族を襲いかかった。虐殺の首謀者はカトリーヌ・ド・メディシスという説が一般的に言われるが、実際に命令を下したのは、ギーズ公あるいはシャルル9世という説もある。フランス宗教戦争は、この後もアンリ4世即位後のナントの勅令(1598年)まで続いた。

ガスパール・ド・コリニー

1519年〜1572年)シャティヨン・コリニーの領主。ユグノー戦争を戦った。ユグノー戦争ではカトリック派に対して残虐な仕打ちが多く、カトリック側から恨みを買っていた。軍人としてイタリア戦争に参加、またスペインとの戦いで捕虜になったこともある。プロテスタントに改宗し、改革派の中心人物になった。宮廷ではシャルル9世から父親同然に慕われ、信任を得ていた。
1568年以降の内乱では、プロテスタント勢力を率いてラ・ロシェルに篭城。反逆罪とされたが、1570年の和議により、宮廷に復帰。当時、ネーデルラントの改革派がカトリック国スペインの植民地支配に反抗していたが(オランダ独立戦争参照)、コリニーはネーデルラントの改革派と連合して、スペインに開戦することを強硬に主張したため、摂政カトリーヌ・ド・メディシスらから疎んじられるようになった。1572年8月、ナヴァール王アンリとマルグリットの結婚式が行われ、コリニーをはじめ多くの改革派貴族がパリに集まった。コリニー提督の死は、シャルル9世を狂気に至らしめたとも言われている。
ユッセ城への幽閉
旧教徒の姫と新教徒の王の結婚に幸はなかった。マルゴは夫としては愛さなかったが敵に囲まれ命を脅かされる日々の中で次第に夫に同士的な愛を抱くようになる。アンリも又身ごもった寵姫の出産の世話を彼女に依頼したりする。夫である国王からオーヴェルニュ山地のユッセ城に19年間幽閉される。
国王再婚

マリードメディチ

30年に亘る宗教戦争に終止符を打ったのはアンリ4世だった。自らカトリック教徒となりナントの勅令(4月13日 1598年) でカトリックを国教としプロテスタントとの共存の道も開く。離婚を条件に晴れてパリに戻った時はマルゴは中年だった。正統な嫡子を得るためマリードメディチと結婚する。
またしてもフランス王家はこのイタリア大商人の冨で屋台骨を支えようとする。
マルゴの心の軌跡
彼女は多くの恋愛遍歴を続けながらも信心深かった。彼女にとって美青年達との絶対的な愛を求める世俗と修道生活にも似た孤独の日々は。。。全く同じ心の動きだった。夫アンリ4世により強制的に『妹』と格下げされたが対岸のルーブル宮のかっての夫の新家庭とマルゴは交流があった。『娼婦館』王は新王妃にマルゴの館を指して言う。だがその『娼婦館』には礼拝堂も付いていた。マルゴは信仰に救いを美青年達に安らぎを求めたのだ。アンリ4世とマリー妃の子後のルイ13世を我が子同然に可愛がり死後広大なマルゴ館を遺贈する。もっともマルゴは借金も多かったのでルイ13世が喜んだかどうか疑問。元夫のアンリ4世が暗殺されたのちも生き延びる。マルゴがこの世の煩悩の森を彷徨う苦しみから解放されたのは1616年。ヴァロア王朝最後の姫の死だった。
『思い出の記』
ユッソンの古城でマルゴはこのメモワールを書いた。自らの不幸を見つめ自己の存在を客監視する真摯さ。マルゴの聡明さを伝えているという。『今の世でメアリースチュアートと私程不幸な女性はいない』とかっての兄嫁と自分の非運を重ねた。斬首の刑に処されたスコットランド女王に比べればマルゴには穏やかな最晩年が巡ってきた。明暗を分けたのは元夫アンリ4世一家との良好な関係と彼女の信心深さと自照作用だろう。それにマルゴはメアリーと違い多くの恋人に彼女の人生そのものは明け渡すことはなかった。
お世話になった本
タイトル 著者 出版元
アンリ4世の青春 ハインリッヒマン 晶文社
世界史
呪われた怪奇ミステリー
桐生操 php文庫
戦国明暗二人妃 渡辺一夫

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