Marquise Jeanne-Antoinette Poisson de Pompadour
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| 美女ありき | ポンパドール侯爵夫人( 1721年 〜1764年) | |||||||||
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ある氷雨の夜ベルサイユで絶世の美女が世を去った。まだ42才の若さだった。ルイ15世は王宮から運び出される担架に向かって呟いた。『さらば20年来の友よ』。早速パリの街でこういう戯れ歌が流行った。 『20年を処女として暮らし愛人としてそのあとは女衒として生きた女ここに眠る』。 |
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| 無冠の王妃への道 | ||||||||||
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ベルサイユの夜会 |
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本名ジャンヌ・アントワネットはパリで生まれた。母はパリでも美しい女性だったが娼婦の道を撰んだ.この母の恋愛三昧の生活を反面教師にジャンヌは知性を磨いていった。ジャンヌの本当の父はポワソンだがドイツに逃げていた。庇護者のトゥルネームは富裕な徴税請負人で金にあかせてジャンヌを磨いた。実の父とも言われている。いずれにしろパットしない両親から生まれたがジャンヌは父の知性と母の美貌と養父の財力の後ろ楯に恵まれた。彼女にとって結婚こそ社会の梯子をよじ登る第一ステップであった。教養を身につけるためジャンヌは修道院へ入った。当時女子修道院は結婚して母になる為のカルチュアースクールを兼ねていた。修道院を出たジャンヌは一度結婚をする。ルイ15世の目にとまるために森で変装して王を待ち伏せ。見事愛妾となる。更にバージョンアップで公認愛妾ロイヤルミストレスの座を狙った。王妃マリー・レグザンスカに紹介される儀式を計画。その介添え人にコンテ公の母を担ぎだした。その莫大な借金と引替えにコンデ公妃は渋々引き受けた。 | |||||||||
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国王夫妻
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| ワインな戦い |
1749年、ポンパドール夫人ロマネコンティ争奪線に敗退。 |
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公認愛妾となったポンパドールへ国王はついにベルサイユのなかに豪奢なアパルトマンを当てがった。ベルサイユの無冠の王妃ポンパドールには2人の鬱陶しい存在があった。リシュリュー卿とコンティ公。コンティ公はルイ15世の親族にして秘密警察の長官。ポンパドールは リシリューを南の果てのボルドーへ左遷に成功。だがコンテ公は手強かった。彼へ耳よりなニュースが入って来た。ポンパドール夫人がブルゴーニュのボーロマネ村の葡萄畑を入手したがってると。すかさずコンティ公は破格の8万ルーブルで葡萄園を買いロマネ・コンティと自分の名を付けた。
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ポンパドール夫人は中央への返り咲きを目指すリシュリュー公爵(大リュシュリューの甥の子.遊び人)とタグを組み反撃に出た。 実は彼の生涯3度も結婚で(3度目は84歳の時!)。ボルドーに飛ばされて以来、とみに若返ったと自他共に認めこれを吹聴。愛飲するボルドー・ワイン霊験故と確信。体験者自らそしてボルドー・ワインの赤の逸品を持参。自分の名誉挽回とヴェルサイユ復帰の為の道具としとポンパドールのセッティングで開かれた晩餐会でルイ15世は、二人の思惑にまんまと嵌まりそのワインを絶賛。 |
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| ボルドーワインがベルサイユご用達に!「王様御用達のワイン」に決めロマネコンティとコンティ公の影は公の領地シャンティイに消えて行った。 | ||||||||||
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レジャー文化担当兼外務大臣 |
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| 彼女はルイ15世について『極めてとらえどころのない人物』と嘆いた。王は退屈を何より恐れた。しょっちゅう気晴らしの要るルイ15世にとって夫人の企画するベルサイユのイベントは大事な生きる証だった。狩猟も漁食も国王の飽くなき情熱の対象だった。王は賭博も大好きだった。 | ||||||||||
| 7年戦争 | ||||||||||
| プロシアのフリードリッヒ2世は彼女が大嫌いで無愁宮(サンスシー)で飼い犬にポンパドールと 名付けて踏んだり蹴ったりしていた。約100万の死者をだした7年戦争は彼女が王に焚き付けて起こしたもの。 | ||||||||||
| ポンパードール夫人勇退 | ||||||||||
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もともと彼女は病弱で寵姫の座が重荷だった。彼女はルイ14世の最後の妻マントノン夫人を精査。太陽王の膨大な生命エネルギーを見事精神世界へ方向転換させた信心深い王妃。前王妃を倣って寵姫の座を捨てこのベルサイユに留まる方法秘策を考えた。1)国王の寝室への秘密の通路を閉じ2)国王に来る書簡は全て彼女がまず開き3)重大な会議は全て彼女の寝室で行わせた。4)鹿の苑という国王の一夜妻を待機させる館を造営、常時夫人が補填した。国王は61人もいた私生児の出産まで夫人に任せた。『私が支配した時代』とまで夫人は豪語。世に言うポンパドール時代は20年にわたった。 | |||||||||
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セーブル窯の設立
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百科全書の刊行
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百科全書は啓蒙思想家のディドロとタランベールが中心となり編集。執筆は1750年から72年まで22年間続き、本文全17巻、図版11巻の計28巻が刊行された。堂々たる大百科事典となった。しかしこの百科全書はフランスで独自に生まれたものではない。もとはイギリスで出版された『シンクロペディアム技芸・科学ユニヴァーサル辞典』の翻訳が目的。百科全書は聖職者や貴族などの上層階級の反対が多く、特にイエズス会からの圧迫は大きかった。ポンパドゥール夫人はルイ15世が百科全書に反対のなかをこれ押し切り百科全書は成功を収めた。なかなか気骨のある美女。だがこれがのちのフランス革命への啓蒙思想の苗床になった。 |
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陸軍士官学校
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ポンパドールの助言は自建設費の調達敷地の選定設計段階からの介入にまでいたる。「それなら私の年収10万リーヴルを使って下さい!」と夫人は提言。賞賛に値する心意気だ。私欲に振り廻されず常にフランスと国王の幸せに生きた優れた女性に脱帽。実は彼女はこっそり太陽王ルイ14世と結婚したマントノン夫人の事例を研究。マントノン夫人は貧しい貴族の娘を教育する「サン=シール女子学院」を設立たのでポンパドゥール夫人は男子を教育する学校も必要性を説いた。この学校は栄光あるフランス陸軍に多くの軍人を送りこんだ。夫人はまた今のコンコルド広場当時はルイ15世広場の整備にも力を尽くした。華のパリの美観に大いに輝きを添える美しい広場。 |
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ポンパドール夫人はフランス宮廷第一の美女の座はディアーヌ・ド・ポワティエ(アンリ2世の寵姫)に譲るにしてもフランス宮廷第一の才女だ。遺された金銭はほんの小銭。物欲は案外なく私益に溺れず貴族より貴族らし富者の義務に生きた天晴れな美女。 | |||||||||
| 革命への助走 | ||||||||||
| 老齢の背徳僧に若い愛妾達にぐうたら国王は政治を牛耳られフランスはもう虫の息だった。ルイ15世とポンパドール時代に革命の火種は用意され海外植民地の多くはこの時代に失った。その危機に目を向けることなく宮廷は爛熟退廃の極みにあった。ヴェルサイユの栄光の日々は1世紀足らずで幕を降ろした。 |
参照 加瀬俊一『ベルサイユ宮殿の女性たち』
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