REGENT 時代

Philippe, Duc d'Orleans

1674年〜1723年)

太陽王が1715年に死去したとき曾孫ルイ15世は5歳だった。親族は叔父のスペイン王フェリペとオルレアン公フィリップだけだった。ルイ15世は2歳で両親を亡くし兄2人とも死別。ルイ14世は自分の娘婿でもある甥のフィリップを信用せず彼が政権に付かぬよう遺言書を認めこれをパリ高等法院が保管した。フィリップはパリ高等法院を取り囲み王の遺言書を無効にさせた。強引に41歳で摂政の座についた。1715年〜1723年の間は摂政時代Regentと呼ばれる。フランスが最も退廃淫乱の時代だった

1652年〜1722年。エリザベスシャルロットは.Wittelsbach家の姫としてハイデルベルグに生まれる。パラティン王女ともドイツ風にリーゼロットとも呼ばれる。ルイ14世の弟 オルレアン公と結婚。男色の夫とは上手くいってはなかった。とりわけ2度目の義姉となったマンテノン夫人とは折り合いが悪かった。Memoires sur la cour de Louis XIV et de la Regenceの記述の多くは パラティン王女の書簡から引用された。彼女の日常は文通で埋められた。1788年に出版され18世紀を知る貴重な作品となった。息子の私生活はなにかと批判的だったがパラティン王女は息子の知性と武勇は認めていた。マリアントワネットは父方の曾孫。
溺愛する自慢の息子ルイフィリップによりによって太陽王の庶出の姫フランソワーズ・マリー・ド・ブルボンを押し付けられ母は気も狂わんばかり。だが太陽王はこの結婚をとても喜び、1692年正式の勅書でパレ・ロワイヤルも与え持参金もたっぷりつけた。大酒飲みで一生寝そべって暮らしたとか。従兄弟同士の結婚だが摂政とマリー妃は8人の子を為した。長女はベリー公爵夫人。淫乱の果て28歳で狂死した。時代の退廃の象徴の様な短い一生だった。彼女への偏愛が異常だったので近親相姦が噂されこれをやじったヴォルテールは摂政から監獄に入れられた。摂政は大変な火宅の人だ。.
この時代のやんごとない夫人は素行が悪かった。
爛熟した世相
贅沢な貴族達は勝手気ままに放蕩と贅沢をくり返し始めた。ちなみにシャンパンが宮廷から広がってパリの人々を虜にするようになり、ヨーロッパ中の宮廷もこれを見習うようになったのはこの時代から。摂政は背が低く異様に太っていてテニスの事故で片目が殆ど見えなかった。このため多趣味で豊かな教養を持ちながらも陰影のある複雑な性格をしていた。この時代が文化的には多彩なのは彼のパーソナリティも幾分あると思う。病的な漁食家で彼の乱れた私生活は貴族階級に蔓延した。下層階級は生活苦から希望のない退廃に陥っていった。魚は頭から腐り尾もそれに続いた。中間層が健全に発達した。革命の主役となる階層である。
サロンの全盛摂政の政治
健全な心ある進歩的な貴婦人達はこぞってパリでサロンを開き芸術家や文学者を身辺に集めた。摂政自ら7年もヴェルサイユを離れパリのど真ん中に住んだ。太陽王も晩年は信心深くなり至って辛気くさかったのでヴェルサイユは次第にかっての求心力を失った。宮廷に取って代わってその代理を果たしたのがパリのサロン。壮年の廷臣から無名の青2歳まで礼儀を守りつつ自由に思想を交換し会話を磨いた。これが今に至るフランス人の雄弁に繋がっている。こうしたサロンが社会の階層を攪拌しのちのフランス革命の理論的な温床のひとつとなった。
ジョンローの起用
摂政も遊んでいたばかりでもない。殊の他改革が好きだった。ただ怠け者だったので持続しなかった。彼が苦労したのは前王の残した借金だった。相次ぐ戦争でフランスの国庫は空に近かった。英国人ジョンローを起用して経済改革にあたらせた。この頃銀行券が金貨と同等の価値を持つようになり争って金を紙幣などに変えた。おりしもインド開発の投機ブームが起こった。ミッシシッピー河流域開発計画を立てざくざく利益があがるかのように積極的に煽った。ルイジアナ金鉱の開発もPR.フランスでは上から下まで投機熱に浮かれた。狸の皮算用は外れ株価の下落が起こった。ジョンローは淋しくヴェニスに逃亡客死。この金融恐慌はフランスの銀行信用取引を遅らせ再び金は退蔵されるようになった。フランスで壁にナポレオン金貨を壁に塗り込めている家はまだまだありそう。摂政の同族コンティ公などが激しく損失補填を要求した。のちにルイ15世の摂政となる強欲無能な大貴族。通称ラデューク。ルイ14世以来勢力を伸ばしていたブルボン家は第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が多くの土地と官職を独占し大多数の第三身分(平民)には重税と領主への貢祖を課させて平民の不満を抱いていた。彼はそのブルボン家の当主。国家の大計より大貴族は私利を優先した。ノブレスオブリガシオン(富者の義務)など何処吹く風もはや死語。コンティ公は真っ先に株券の換金を迫った。
摂政時代の世の有り様
パレロワイヤルで催す摂政の有名な夜食会(スーペ)は別名悦楽の夜会。摂政の母パラティン王女はこう言いながら顔をしかめる.
「今の流行には眉をひそめざるを得ません。。。男も女も不埒きわまる無頼の生活をしています。姦淫乱交窃盗殺人の話ばかりですが、その原因はとくに貴族女性が売春婦より悪質だからです。」と我が子摂政をあてこすった。当時の風潮を次のよう大いに嘆く。「。。。。。自分の子供を愛するというのは、とても当たり前のことですが、自分の妻を愛するということは、すっかり流行遅れになってしまいました。当地(パリ)では、そのような例はひとつも見掛けません。身分の低い人々の間では、今でもまだ仲の良い夫婦は見られますが、上流の人々の間では、夫婦双方が愛し合い、貞節であるという例は、私はひとつも知りません。。。」。「こうした前代未聞の自由恋愛の風潮がパリとヴェルサーユに住む約2万5000人の貴族階級の面々の間で流行し、官能的な快楽の追求に人々は狂奔していた」まさに「十八世紀における上流階級の生活を特徴づけるものは、自由と放埒と退廃であり、あくことなき快楽の追求であった」
リージェントダイヤ
原石は1700年頃ゴルコンダの南の鉱山で発見された。ゆうに410ctを超えた。トーマス・ピット(英国の首相ウィリアム・ピットの祖父)に売られて英国へ送られた。ここで研磨され痩せ細り140.50ctになる。1707年にはロウとサン・シモン公に吹き込まれ摂政は当時世界一の大きさとうたわれていたこのダイヤを13万5千ポンドで購入。その名も彼にちなんでREGENTと変えた。1792年の王室財宝庫からの宝飾品の盗難後消失無事再発見される。ナポレオンが戴冠式で身につた。ナポレオン追放後、妻のマリー・ルイーズが持ち出した。父親のオーストリア皇帝がちゃっかりした娘を諌めフランスへ返却させた。フランス革命の折盗難にあうが駅前のプティホテルの食べかけのりんごのなかで発見された。現在はルーブル美術館が所蔵。
赤ちゃん受難の世紀
爛熟した社会の例にもれず売春も相当盛ん。1770年当時のパリの人口は65万人らしいが、そのうち売春婦の数は推定で2万人。このような時代に必然的に生じたのは、「捨て子」と「里子」幼児死亡率は極めて高かった。まさに乳幼児受難の世紀。名宰相タレイランは里子時代に足を悪くされた。当時のフランスの作家は、次のように嘆く「例年、両親から捨てられて、『捨て子養育院』にほうり込まれる赤ん坊が6,7千人いる。その数字を差し引いた残りのの『新生児』の数は1万4、5千人を越えないのである。民衆の困窮と人類の堕落がこれ以上明白に、恐るべき姿で現れることがあろうか」。なんとも不健全な世紀である。
摂政の最期
1733年摂政は最後の愛人と暖炉の前で語笑中卒中で死去。49歳だった。このときルイ15世はようやく13歳だった。艶福家の摂政は当然の帰結としておおくの非嫡出子を遺した。悦楽の夜会などパリのパレロアイヤルで連夜のように開催。摂政の愛人はいかがわしい女が多かった。が見上げたことに摂政は政治には彼女達を関与させなかった。摂政の愛人は何故か見苦しい女が多かった。母后が理由を訊くと摂政は『猫は夜は皆灰色ですから』と答えた。
オルレアン公の画像

ニューオリンズ市歴史博物館蔵

遂に発見!摂政の画像は少なくて苦労した。相当見苦しかったらしい。ニューオリオリンズの旅で発見。彼の名を取ってヌーヴェルオルレアン→New Orleanとなった。

参照
ヴェルサイユ宮廷の女性達  加瀬俊一 文春文庫
世界の歴史  教養文庫  世界思想社
ルイ・セバスチャン・メルシエ著・原宏訳『十八世紀パリ生活誌』
本城靖久著『十八世紀パリの明暗』新潮選書(絶版)
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