Louis XVRoi de France(1710-1774)もてもてのルイ

ルイ14世太陽王の曾孫。父はルイ・ド・ブルゴーニュ、母は サルディーニャ王女マリー。祖父も父も相次いで没し、1715年太陽王の後を継い で5歳でフランス国王として即位。
この境遇が王を生涯メランコリックな複雑な常に気晴らしの要る人間に仕立てていった。ここに王の愛妾ポンパドール夫人の時代が長期に続いた理由があった。ルイぐうたら王またはモテモテのルイと呼ばれた フランス一の美男。
ルイ15世の治世
摂政
オ ルレアン公フィリップ2世幼少の王に代わり国政を司った背徳な摂政と愛妾達だった。

幼君ルイ15世と摂政

デュボワ師

サンシモンは『随想録』のなかでこの破戒僧のことを告発している。このような師を仰ぎ育った摂政がフランスを牛耳りやがて首相となりほぼ独裁したのでは国の末路は見えている。

ブルボン公&プリ侯爵夫人
つぎ はコンデ親王ブルボン公アンリ(1692年〜1740年)通称Le Duc。愛人ジャンヌはプレヌフの領主エティエンヌ・ベルトレの娘.父は裕福な収税請負人であった。15歳のときルイ15世の代父であるプリ侯爵と結婚。野心家のプリ侯爵夫人は痩せて嗄れ声で醜く無能な宰相ブルボン公の愛人となる。この時代の金融恐慌は彼が飽くなき私利を追求したのが一因。小麦粉を買い占めパンの値段を高騰させ庶民を苦しめた。ルイ15世のお妃選定迄この悪のコンビはやってのけた。貧しいポーランド廃王の娘マリー姫を玉の輿にのせ恩を売っておいた。自分達で国政をいじりやすくするため王を政治オンチにしたてた。王を狩りと愛欲の日々に埋もれさせた。愛人ブルボン公と同様彼女も負けずと無能だった。二人の不正蓄財を追求しょうとしたフルーリ司教を追放しょうとしてかえって王から疎まれた。ブルボン公は領地シャンティイーに追放された。この極悪カップルの使いぷりは派手で国庫は僅か3年でほぼカラカラなった。貨幣の改悪、増税、大雨による麦の不作と暴騰。。。かねて不人気なこのカップルは失脚。ドプリ夫人は当時の僻地ノルマンディーに軟禁され27歳で数奇な一生を服毒自殺?で閉じた。
マリーレグザンスカと結婚
ルイ15世はブルボン公&侯爵夫人の肝いりでマリーレグザンスカと1725年結婚。亡命地アルザスの町でそれまで姫は教会でバイトをしていた。素直で控えめな女性で10人も子を産んだ。最初は『角笛一つで嫁に来た』と国民は反発。王妃の善良さは徐々に国民に理解された。ポーランド廃王 スタニスワフ1世は困窮していた。が娘のシンデレラ婚のおかげで封じられたローレーヌ地方ナンシーで結構幸福な人生を送れた。
フルーリ司教

は、ルイ 15世の傅育官であった。彼は財政問題に取り組み、高齢故平和政策を基本としたので、フランスはしばらくの間小康状態。司教死後ポンパドゥール夫人の知遇を 得たショワズール公はフランスの新しい支配者となる。

宰相ショワズール
のちに公爵に列せられる、(1719年〜1788年)国王には疎まれたがポンパドール夫人の引き立てで 大使をへて外務大臣から首相。オーストリアとの同盟を大事にし女帝マリアテレジアから『ヨーロッパの御者』と誉められる。王の新しい愛妾娼婦出身のデュバリー夫人と敵対、また王の悪友リシュリュー(大リュシュリューの甥)とも対立。哲学を愛好しポンパドール夫人と百科辞書の刊行に協力。ルイ15世から突然引退させられる。愛妾の入れ知恵らしい。
ルイ15世の後宮
ルイ15世の私生児は61人?にものぼったと伝えられる。100人の英国のエドワード7世には及ばない。プロイセンのフリードリヒ大王が「ルイ15世の統治は女の室内帽とスカートの治世」嘲笑。彼はパドゥール夫人やデュ・バリー夫人らの寵妃に溺れて湯水のごとく金を支出し政治への関与まで許してしまった。
最初の公認愛妾

次々ネール侯爵家の娘を愛人にしたが器量の一番劣る の5女が に王の最初の公認愛妾となった。シャートルー公 爵夫人の名を与えられた。

ポンパドール夫人は別格の扱いとした。
最後の公認愛妾 Comtesse du Barry
デュ・バリー伯爵夫人(1743年〜1793年) は晩年の王の最後のというよりフランス最後の公認愛妾.。ルイ16世はマリーアントワネットに生涯忠実で1人の寵姫も持たなかった。.王はもと娼婦の夫人にでれでれで政治にまで口をはさませた。夫人は王に目障りな補佐官ショワズールを追放させた。一方彼女は陽気でコケティッシュで宮廷の殿方には人気抜群だった。王太子妃マリーアントワネットは娼婦ご出身のバリー夫人を徹底的に無視。実家の女帝テレジアの諌めで渋々舅の国王の寵姫に言葉を節約して話しかけた。バリー夫人は断頭台を前にして誇り高く毅然と死んだ貴婦人達と違った。泣き叫び助命を乞い死刑執行人の業務遂行を大いに邪魔した。
国王と戦争
軍服姿は凛々しいが意気地はない国王だった。
ポーランド王位継承戦争、オーストリ ア王位継承戦争そして7年戦争を経験し、国家の財政を破綻さ せた。7年戦争にいたっては愛妾ポンパドール夫人の遺恨晴らしと言われている。カナダ,インドの植民地も失った。いくらかの改革を企てたがフランスはもう誰が王になろうと摂政になろうと、その蘇生はきわめて困難である状況だった。王自身も全く国政に興味を示さなかった。1770年、王はフランスとオーストリアの友好のために、自分の孫とオーストリア女帝の末娘との結婚に同意した。ルイ16世とマリーアントワネットの悲劇のカップルの誕生する。

ロココの時代

デュバリー夫人愛用の家具

重厚強大なバロックへの反動から18世紀は優美なロココ文化が花開いた。快楽主義者摂政のおかげかこの時代のフランスは明るく活き活きしていた。摂政時代、ルイ15世の宮廷は暗く重いヴェルサイユからパリに移った。人口も1700年2150万から1790年には2800万に増加。農業は人口増に見合う生産増。パリのみならずボルドーなどの地方都市も発達。商工業は活況を呈した。文化面では宮廷の役割が減少しアカデミー・フランセーズや科学アカデミーなどの各種アカデミー、ランベール侯夫人やジョフラン夫人などのサロンが花を競った。プロコーブなどのカフェ、秘密結社フリーメーソンの会合などが、啓蒙思想家や芸術家、科学者の活動の場となった。

国王崩御
1774年5月10日、天然痘によって崩御。
悲惨な最期だった。葬儀には国民の嘲笑さえ聞かれた。
王権は既に失速していた。

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