メアリースチュアート

1542年~ 1587年Mary Stuart女王様は波瀾万丈

スコットランド女王(在位、1542年12月14日 - 1567年7月24日)

新女王は生後6か月 スコットランド王ジェームズ5世と王妃マリー・ド・ギ−ズの長女。

1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。摂政には、ジェームズ2世の曾孫のハミルトン。イングランド国王ヘンリー8世の要求によりメアリー赤ちゃんは当時皇太子だったエドワード6世と婚約させられた。1547年イングランドの政権を握ったサマーセット公シーモアの攻撃を受け、迎撃に出た摂政アラン伯が敗れる事態になった。1548年、王母マリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れた。

母マリーは夫亡き後娘メアリーの帰国までスコットランドを治めた気丈な女性。

麗しき日々

シャンボール城。

メアリーのフランス宮廷での日々

メアリーは母マリーの実家フランス宮廷で大切に育てられた。王妃マルゴは宮廷での日々を共に過す。『今の世でメアリー女王と私程不幸な女性はいない』とかっての兄嫁メアリーと自分の非運を重ね合わせた。

フランス宮廷

アンリ2世+王妃カトリーヌ+寵姫ディアヌの奇妙なトリオがフランス宮廷を権謀術数渦巻くものとした。この環境が幼いメアリーのその後の人生に影を落としたことは否めない。エリザベス1世が国家第一の生き方を撰んだ対極に恋愛三昧に直情径行のメアリーは生きた。

17才のフランス王妃
1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の皇太子フランソワと結婚。同年11月17日にエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、義父アンリ2世は「庶子であるエリザベスは不当。メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議。さらにイングランド王位継承権者であることを宣言。エリザベスを激怒させた。7月10日にアンリ2世が亡くなると、皇太子フランソワがフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。
新婦メアリー
新郎フランソワ
この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、イングランド王位継承権者を示す紋章の使用禁止が謳われた(実際には、メアリーは、この紋章を使用し続けた)。

メアリー帰国
1561年11月5日、フランソワ2世が病死。1561年8月19日、エディンバラの外港リースに2隻のガレー船が到着した。スコットランド女王メアリ・スチュアートが13年ぶりに故国の土に降り立った。メアリーは父の庶子を政治顧問とした。当時のスコットランドは、宗教改革が進み多くの貴族がプロテスタントに改宗していた。がメアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を演出した。
女王再婚
1565 年 7月29日、22 歳のメアリーはよりによって従兄弟ダーンリー卿ヘンリー・スチュワートと再婚。ーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公などだった。中でも特にメアリが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロス。イングランド貴族の血を引くとはいえ軽卒なうえ節操のない19才の新郎はたちまち馬脚をあらわす。新婚早々メアリーは深く後悔する。この結婚に不満を抱いた貴族たちは、反乱を引き起こした。メアリーは直ちに反乱を鎮圧。
1566 年 3 月 9 日、メアリーの秘書でイタリア人のリッツィオが妊娠 6 ヶ月のメアリの眼前で殺害された。
1566 年 6 月 19 日、メアリーは男児を出産。ジェームズ・スチュワート。後のスコットランド王ジェームズ 6 世であり、またイングランド王ジェームズ 1 世である。
3 度目の結婚 1567 年 2 月 10 日、メアリーの夫ダーンリー卿が殺害された。ボスウェル卿は妻と離婚し、メアリーと再婚した。野心家で押しが強かった。メアリーの王冠が何より好きだったようだ。
再々婚に反感を持つ兵士達が戦闘を拒否、メアリとボスウェル伯はあちこち逃げ回ったあげく、6月15日にカーバリー・ヒルにて再々婚反対派の軍勢に降伏した。「売春婦を焼き殺せ!」「 亭主殺しを焼き殺せ!」メアリは民衆の罵声を浴びつつエディンバラに連行され、ついでロッホリーヴンの城に幽閉の身となった。

エディンバラの落書き。はっきりとボスウェル&メアリーを名指している。人魚は英国では娼婦の象徴だった。

ボスウェルのその後
カーバリー・ヒルから逃走したボスウェル伯はオークニー諸島に渡って海賊の頭目となった。その後ノルウェー海岸でデンマーク艦に囚われてドゥラグスホルム城の牢獄にぶち込まれ、12年後に狂死した。
メアリー刑死
1568年5月、ロッホリーヴン城を脱走したメアリーは6000人の兵を集めて軍を起こすがマリ伯の軍に敗北。イングランドのエリザベス1世の元に逃げ込んだ。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をすることを許された。しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。旧教徒勢力と結んで、エリザベスの暗殺を謀ったというのが、その口実である。翌1587年2月8日フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑された。当日3時間かけて深紅のドレスを身に纏い、丹念な化粧をしたメアリーは「殉教者として死んでいきます」といった。今は故人となった元女王のマントから彼女の愛犬が飛び出して涙をそそった。
生まれてすぐベビー服の中でスコットランド女王に成ったメアリー。そして結婚後すぐにフランス王妃の王冠が転がり込んで来たメアリー。母は父王に斬首されときにはロンドン塔にまで入れられたエリザベス1世。まさに家康ばりの苦労人、従姉妹メアリーは砂糖菓子でエリザベス1世は人生の苦みにたっぷり味付けされ育った。その差は人生の明暗を分けた。16世紀の生んだ最もロマンチックな女王は処刑台の露と消えた。しかしメアリーは男性運の悪い女性だ。時代もまた宗教戦争さなかだった。
1612年、メアリーの息子であり、イングランド・スコットランド両国の王となったジェームズにより、メアリー・スチュワートの遺体がウェストミンスター寺院に移された。
それ以後現在に至る400年、王朝は幾度かかわれども、ふたつの国の国王は常にジェイムズ1世の子孫が登位している.悲劇の女王メアリーの血は今も英国王室に流れている。運命の皮肉である。
メアリー&ジェームズ
参照
The Story of Queen

Mary Queen of Scot

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