アンリエット・ダングルテール1644年〜1670年

アンリエットの生涯
父王ゆかりのCAVARIE OF KING CHARLES種の愛犬ミミを膝に乗せた悲劇のオルレアン公妃。彼女を待ち受けた恐ろしい陰謀を知る由もなかった。

母が「Henriette de Franceフランスのアンリエット」娘は 「Henriette d'Angleterre英国のアンリエット」と呼ばれた。

キング・チャールズ・スパニエルの改良犬。チャールズ王の騎士として区別されるようになったのは20世紀に入ってからである。寒い冬のフットウォーマーとして愛用されている。

生い立ち

1644年6月16日内乱のさなかイングランドのエクセターで生まれた。英国王チャールズ1世とアンリ4世の娘アンリエット・マリアの間の末娘。その15日後に母は姫を置き去りにしフランスへ亡命.後に乳母たちの機転で男の子に変装させられて無事フランスに渡った。母子は フランス宮廷で庇護を受けながら生活するようになった。最初はまだ王妃アンリエッタ・マリアは夫チャールズ一世を助命運動をし宝石も売って戦費も工面。その努力も空しく王は刑死。ジェントリー階級出身のオリバー・クロムウエルを護国卿と仰ぎ英国は共和国になった。
父と母
アイスクリームドーバー海峡を渡る。

このイタリアの氷菓をフランスに持ち込んだカトリーヌ・ド・メディチの孫娘アンリエッタ・マリアとチャールズ1世の結婚による。イギリスにアイスクリームが渡るのは1624年のこと。

アンリエット・マリア
(1609年〜1669年)
アンリ4世とマリ・ド・メディシスの娘
革命後、フランスで亡命生活をおくる。宰相マザランがケチぶりを発揮したため、ひどく貧しい暮らしを強いられる。絶世の美女。王妃は夫チャールズ一世を助命運動をし宝石も売って戦費も工面。その努力も空しく王は刑死。
チャールズ1世
(1600年〜1649年)
父ジェームズ1世を継ぎ王位へ。イングランド王 スチュアート朝第2代(位1626-49)
父同様王権神授説を信奉し専制政治を行い議会派と内乱を招いた。1649年裁判によってチャールズの処刑が宣告さ議会を再開するがイギリスは清教徒革命に突入する. クロムウェル率いる議会軍鉄騎隊等の活躍で1月30日王は捕えらた。ホワイトホール前の処刑場においてチャールズは斬首された。清教徒革命以後11年間、クロムウェルが実権を握って共和制が敷かれ、1660年の王政復古までイングランド王位は空白になる。
星になった王
コルカロリ, Cor Caroli, りょうけん座の最も明るい星。ラテン語で「チャールズの心臓」と命名された。
友人ラファイエット夫人
チャールズ1世の処刑後、王妃と末娘の王女アンリエッタ・アンは母の故国フランス、シャイヨのサント・マリー修道院に身を寄せた。ラファイエット夫人は下級貴族の出身に過ぎなかったが、この修道院にいる二人の妹達を度々訪ねるうちに英王妃の知遇を得た。10歳年下のアンリエッタと深い友情で結ばれその友情は生涯変わらず、アンリエッタ・アンの最期も看取た。義兄ルイ14世とアンリエッタの不倫を擁護するため小説を刊行。
チャールズ2世
1630年〜1685年

(在位1660年〜1685年)イングランド・スコットランド・アイルランド王国国王。末の妹アンリエッタを「子猫ちゃん」と呼んで猫可愛がりした。1660年の父の処刑後フランスで亡命生活をし早19才で私生児1号を設けた。早熟だ。遂に王政復古で英国王として迎え入れられた。1658年、護国卿クロムウェルを継いだその息子が無能だったため。清教徒は政界から追放され5000人が獄死。新国王は利己的・享楽的性格の持主であったが,なかなか陽気で要領が良かった。1680年ごろまでは,比較的議会との協調をはかる政治を行った。最大の難関の宗教問題も彼自身は旧教徒であったが「信仰自由宣言」(1672年)を発するがこれは議会によりあっさり否認される。1664年王はオランダ移民が原住民から買い取った新大陸のニューアムステルダムを奪い取りちゃっかり「ニューヨーク」と名を変えてしまった。このころ、大陸ではペストが大流行。オランダ人捕虜からイングランド人兵士感染してしまった。不潔な密集都市ロンドンでペストが蔓延7万人が死亡し、住人の三分の二に相当する30万人がロンドンを脱出。

兄嫁キャサリン
チャールズ2世は1662年ポルトガル王女キャサリンと結婚。 花嫁は50万ポンドの現金の他、綿布や陶磁器、漆器などの東洋の珍しい品々、そして茶と砂糖を持参。 さらに東洋趣味の彼女は喫茶の風習をイギリスの宮廷内に持ち込んだ。彼女の持参金の目玉はインドの都市ボンベイまるごと。後にイギリスのインド支配の拠点のひとつとなった都市。愛妾やプロテスタントに囲まれ影の薄い花嫁だった。ニューヨークのクイーンズ地区はこの王妃から命名。国王なき後は帰国。リスボンで死去。プレイボーイの夫をカトリックに改宗させた。
女装趣味だった
王弟オルレアン公フィリップは末娘アンリエッタと結婚。新郎ルイ14世の弟フィリップは幼い頃より女の子として育てられた。ルイ13世の弟オルレアン大公は兄から王位を奪おうと虎視眈々。そんな前例から王座への野心を持たぬようにフィリップは女装させられた。フランス最大の領地を持つオルレアン家を再興した。この家系はたえず王位を狙う家風。パリのパレ=ロワイヤルに住んでパリ市民の人気を集めていた。結局オルレアン公の女装癖がなおらずに同性愛者となり、ギーシュ伯爵アルマンや悪名高き犯罪者ギーズ侯シュヴァリエ・ド・ロレーヌらはムシュー(フィリップ)の寵を得た。結婚後すぐにオルレアン公は元の男色に戻り新婚のアンリエッタ妃は不幸な結婚生活から憂愁のビィーナスと宮中で呼ばれた。リボンとレースと賭博と男性をこよなく愛した。
義兄ルイ14世
危険な情事
太陽王ルイ14世は従姉妹アンリエッタに「骸骨寺のお骨」と渾名を進呈。弟の妃になったとたんにの従妹が美しい貴婦人に成長。その姿を宮廷で見るにつれて、むざむざと弟に嫁がせたことを悔やんだが後の祭り。1661年初夏、22才のルイ14世と16才の義妹王弟妃のの大ロマンスで宮廷は大騒ぎ。 二人は忍ぶ恋どころか連日連夜デイトに現を抜かした。花火にバレーに、馬車のドライブに音楽会と。お互い新婚間も無い身でありながら王弟オルレアン公フィリップや、ルイ14世妃スペイン王女マリア・テレサは面子まる潰れ。国家的なスキャンダルに発展しかねない状況だった。母后アンヌの心配は一通りではなかった。内憂・外憂を遠ざけようやく王座を取巻く状況は安定しつつあったさなかの事件。この事件を利用し権力に野心を燃やす連中がオルレアン公に接近王位を狙う恐れも充分。王弟妃の外交上の影響力を憂慮し、スペインとの関係悪化も危惧された。「王の恋愛すら、個人的な情事では有り得ない。その事が何故解らないのだろうか?」と宰相マザランと母后は諭す。若い国王には馬耳東風。アンリエッタの娘2人はルイ14世の子とも言われている。
英仏秘密協定
1670年英国王の実妹オルレアン公妃アンリエッタの仲介によって、英仏の間でようやく「ドーヴァー秘密協定」が締結された。イングランドの旧教復帰とフランスのオランダ侵略の相互協力を取り付けた。アンリエッタ外交の成果である。
アンリエッタ毒殺
夫オルレアン公の恋人フィリップ・ド・ロレーヌ公(シュバリェ・ド・ロレーヌ)はサン・シモンをして「天使のように美しい」と言わしめる美形。彼こそアンリエッタ公妃の毒殺に関わったと巷間で取沙汰された。彼は昔投獄されたことで深くアンリエッタを恨んでいた。
オルレアン公再婚
アンリエッタの毒殺直後この不実な夫は『星占いでは私は再婚するそうだ』と言い放つ。程なくファルツ選帝候カール・ルートヴィッヒの娘と結婚。公妃となったリーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツは意に染まぬ結婚生活を紛らわすため実に6万通の手紙を遺した。アンリエッタの遺した2人の幼い姫とも良好な関係を保った。オルレアン公はこの妻に何も遺産を遺さなかった。
悲劇の一家
父王は刑死、娘は毒殺された。愛くるしい犬とアイスクリームと美しい星の名を後世に遺すことになった。そして兄嫁は紅茶を英国にもたらした。
追憶の公妃
ラファイエット夫人
はのちに王弟妃を回想
L’histoire d’Henriette d’Angleterreを書いた。また王妃の最期も看取った。
劇作家のラシーヌ
代表作 『アンドロマック Andromaque』などの序文で王弟妃を追憶。
アレクサンドル・デュマ
『三銃士』シリーズ後半にも王弟妃は活写されている。
ボスエ師
また名説教家ボスエ師は薄命の公妃アンリエッタに美しい追悼文を献じた。

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