ヴェルサイユの恋人達

ランス革命の後に月日が流れてから書簡集が発見された。

フェルセン伯爵のもの。相手の女性は悲劇の王妃マリー・アントワネットと判って騒然となる

フェルセン ハンス・アクセル・フォン・フェルセン
1755年〜1810年
1755年、マリー・アントワネットと同じ年にスウェーデン軍人貴族の家に生まれる。父もかって13年ヴェルサイユで過ごした陸軍元帥。背が高く端正な顔立ちのフェルゼンは15歳になると3年間ヨーロッパ遊学に出発。18世紀の青年貴族が必要としたことをフルコース身につける。当時世界の王室はこぞってヴェルサイユをコピー.スウェーデン国王グスタフ3世も手紙を書くのはフランス語。1773年12月18歳の彼はパリの社交界にデビューし多くの人を魅了する。
運命の出会い

宮廷でのマリーアントワネット

翌1774年1月、仮面舞踏会で運命の女性、フランス王太子妃マリー・アントワネットに会った。この出会いがゆえに人生の逆巻く海に放り込まれることになる。マリーアントワネットは 1770年5月16日14歳のときでオーストリア、ハプスブルグ家から輿入れ。少年モーツアルトからプロポーズされたことも。当時彼女は若く軽薄でヴェルサイユを抜け出しパリで遊び狂ってた。ルイ16世が夫として不甲斐なかったせい。のちに簡単な手術で正常に戻り王子と王女を得る。当時の駐仏スウェ−デン大使も王太子妃がフェルゼン伯 爵に特別な気持ちを抱いているようであると本国の国王への報告。4ヶ月後、ルイ15世が崩御すると王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ母国へ。
再会

2年後の1780年、フランスの派遣軍団の副官としてアメリカ独立戦争に参加。この時が別れる好機と外交文書にも書かれている。1783年、再びパリに。マリー・アントワネットに再会、その後すぐ、スウェーデン国 王と諸国を歴訪した。1785年以降、お人好しルイ16世の好意で駐仏スウェ−デン近衛隊大佐に任官されパリに定住。こうして二人を結ぶ糸は撚り合わさって不可分の運命という布となる。降るような結婚話(蔵相ネッケルの娘など)を断り頑なに結婚を避け、ただマリー・アントワネットへの忍ぶ恋に生きることになる。

暗転

気弱な国王ルイ16世

次第に孤立し始めた王妃の唯一の友として献身的な努力を重ねる。「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」人生の哀しみが彼女を変え始めた。だが時は既に遅く迫り来る悲劇は避けようがなかった。
春の日溜まりを散歩中のような人生と戯れていた彼女が暗転した運命の過酷な挑戦を受けて闘う女になった。チュイルリー宮で反革命の外交交渉に王妃自ら権謀術数を巡らすが不用意な言動故情報は洩れっぱなし。弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文で書簡を認め、怪物ミラボー伯を引見し君主制維持の陰謀をめぐらす。ルイ16世はいつも退屈し積極的に事態を打破どころか掌握することもなかった。フェルゼンは王妃の献身的な相談相手となり恋に墜ちたのはごく自然の成り行きだと思われる。

ヴァレンヌ逃亡
1790年、兄ヨーゼフ2世の死によって神聖ローマ皇帝となったのは次兄のレオポルド2世だった。フェルゼンは1791年のヴァレンヌ逃亡の時も東奔西走し各地の王党派と連絡を取り合い綿密に計画を立てた。このために現在に換算すると120億もの私財を投げ打った。国王一家逃亡のために007並み活躍。
召使いをロシア貴族に変装させ、従僕に変装した国王、侍女姿の王妃そして女装の王太子に内親王ら王家の人々。日雇御者の扮装のフェルゼン伯爵の馬車に乗り込んで闇夜を疾 走。道中何事もなく、田園の光景に一行の心も和み、ちょっとしたピクニックや知人の館にも訪問というのどかさ
予定より4時間以上も遅れて国境近くのヴァレンヌに到着した。あと僅かで王妃の故郷当時のドイツ帝国だった。サント・ムヌ-という町の駅長ドル二エが支払われた紙幣の国王の肖像と車中の人物の顔のそっくりなことに気ずく。全国指名手配中の 顔写真を紙幣が演じたのだ。宿屋の主人に見破られその夜は村の助役ソ−スの家の粗末な寝台に眠ることとなる。6月25日、国王一家はテュイルリー宮殿に連れ戻された。
間違いだらけの逃亡
マリー・アントワネットが馬車の内装を特注にしたことなどにより、脱出は当初の予定より1ケ月以上遅れていた。なにしろ逃亡中とはいえぬ豪華なお召し列車並み銀器やシャンパンを載せた馬車まで用意。いきおいスピードは出ない。田舎に滅多にない大型豪華馬車のパレードがヴァレンヌまで到着したのが奇跡。なんともお粗末な逃避行だった。馬車の到着の4時間の遅れ一行を警護する警備隊はもう待ち合わせ場所にはいなかった。フェルゼンの立てた逃亡計画の詰めの甘さ以上に王族としての威厳と豪奢さにこだわったアン トワネットの現状認識と危機感のなさが計画失敗の敗因。逃避行はコソコソとカジュアルに荷物はコンパクトなのは必須条件。王弟プロヴァンス伯は身軽ないでたちで夜蔭にまぎれてパリ脱出に成功。
事件の傷跡

タンプル塔

このヴァレンヌ逃亡事件の後、国王不要論が出てくるようになる。それまで市民達は国王一家に寛大だったのだし国王としての矜持から逃亡にルイ16世は消極的だった。立憲君主制度などという折衷案もありシンボルとして存在できたのに。民衆の中にはまだ国王への愛惜があり国王万歳と叫ぶ者さえいた。しかし、王の威信を決定的に落としたのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」。これ以後坂道を転がり墜ちるように破滅への暗い淵に吸い込まれていく。その後、国王一家が幽閉されると、フェルゼンは最後の絶望的な努力をする。その後1792年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。そして、それが恋人同士のこの世で最後の逢瀬だった。革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、チュイルリー襲撃からタンブルへの護送まではたったの三日間という息もつかさぬ急テンポの進展ぶり。さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがなかった。

国王夫妻の処刑

王妃最期の肖像

在位2年で急死した兄レオポルド2世の後を継いだのは甥のフランツ2世.彼のアントワネット救出作戦も失敗。1793年1月21日、ルイ16世はギロチンにかけらた。革命広場に集まった民衆の前で断頭台の露と消えた。王妃がコンシエルジュリの牢獄から引き出され、肥料用荷馬車にのせられて革命広場に連行されたのは、1797年10月16日のこと。ダヴィッドは一切色彩を用いず見事な技量で王妃の最後の姿を残している。『王妃としての義務に生きなさい、さもないと悲しい運命になりますよ』母マリアテレジア女帝の言葉は娘の耳には届かなかったのだ。
フェルゼンの最後
愛する女性が処刑されると、フェルゼンは無表情な暗い人間になっていく。特にマリー・アントワネットを「殺した」民衆を憎悪し抜く。政治家が民衆と乖離したら悲劇である。その後外交使節として活躍し、スウェーデン国王からの信任は厚く国王顧 問から元帥にまで昇格。1806年、スウェーデン王太子が急死すると王位を狙ったフェルセンが毒殺したのだと言うあらぬ噂が広まる。「運命の日」6月20日ストックホルムで暴徒に襲われ、馬車からひきずり降ろされ投石され惨殺された。遺体は全裸にされ側溝に投げ捨てられた。悲しい恋に生きた北国の貴公子の最後だった。

救いようのない暗黒の血生臭いフランス革命もフェルゼンとマリーアントワネットの悲しい恋の物語はベルサイユに咲いた秘めやかな花のように香しい。その香りは人間に情念がある限り失せることはない。

参照
ヴェルサイユ宮殿公式HP
ルーブル美術館公式HP
世界の歴史
ヴェルサイユ宮廷の女性達 加瀬俊一 文春文庫
イタリア

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