ジャンヌダルク1412年〜1431年

14世紀フランスの霊能者達は予言していた。 ロレーヌの森の乙女が奇跡を持ってフランスを救うと。あまりにも特異で神秘的なその生涯は痛ましい。その短く激しい生涯を再現するのは至難の業。ごく簡単に箇条書きする。

(1)農民の娘。かなりの富農だった。
(2)救国の信託を受けたと信じた。
(3)オルレアン解放、崩壊寸前のフランスを救った。
(4)宗教裁判で異端とされ処刑された。
享年19歳。

オルレアンに行くまでのジャンヌ
彼女は、13歳の頃から神の声を聞くようになった。「立って祖国を救え」という神の声(大天使ミカエル)によって使命に目覚めそして3つの命令を聞く。「シノン城へ行き王太子シャルルへ会うこと」「オルレアンを救え」「ランスで戴冠式を行うこと」。ジャンヌはウオクールの領主から馬と従者を与えられシノンへ向かう。ドンレミはブルゴーニュ派のなかにあって孤立したアルマニャック派の村だった。
ドンレミの生家
トロア条約
1420年ので仏王位は英王ヘンリー5世、次いでその幼子ヘンリー6世のものとされた。
フランスの状態
アルマニャック派 シャルル7世
vs
ブルゴーニュ派 ヘンリー6世
分裂し、内乱状態。イギリスと戦闘を続けていた。情勢はブルゴーニュ派に有利、パリは押さえられ、オルレアンも包囲されていた。オルレアンが陥落すれば一巻の終わりだった。シャルル6世が死去しても皇太子シャルルは正式に王位につけないまま各地を転々。1428年にはシノンに来ていた。既にフランスの北3分の1と南西部のボルドー付近はイギリスの手に落ちていた。イギリス軍は北部の駐留地とボルドーとの連絡の拠点にするオルレアンを奪取。
フランス王と謁見
1429年、ジャンヌはシノンのシャルル七世への謁見を許された。シャルルは300名近い臣下に紛れ混む。かくれんぼうでジャンヌをテスト。祖国の為に戦いたいと申し出、オルレアンが陥落すれば、情勢は最終局面を迎えるはずだった。イギリス軍を追い出したいので軍隊を貸して欲しいと申し入れた。皇太子は半信半疑とりあえず数千人の兵を預ける。このときアランソン伯爵ジル・ド・レ男爵とチームを組む。フランス王に次ぐ莫大な遺産を持つジルは自力で騎士団を結成。ジャンヌへ強い憧憬の念を抱き共に戦場を戦った。

戴冠式でのジャンヌ

その年、ジャンヌは部隊長の一人としてオルレアンに送りこまれた。砦の周囲は英国兵に囲まれ、突入は秒読み段階。ジャンヌは門を開き フランス軍は勝利し、オルレアンは開放された。フランス軍はその
後進軍しながら勝利を重ねていく。シャルル七世は彼女の従軍を認めてはいたが、彼女に対して明確な位置づけはしていない。進軍の間にもジャンヌは フランス軍はその後も順調に勝ち進み、ランスで戴冠式を行った。
オルレアン解放の謎

歴史上まれにみる大逆転勝利を成し遂げた理由。

(1)ジャンヌの宗教的情熱。
(2)常識に縛られない戦い方。当時の新兵器大砲の投入。
(3)イギリス軍の弱気。

ノルマンディーへ進軍
ジャンヌたち一派はイングランドの支配するノルマン
ディー地方への進撃を強く主張した。そしてパリを攻撃するが失敗に終わり、シャルル七世はブルゴーニュ公と和約を結んだ。この頃にはすでにジャンヌは人間としての原形を留めておらず、
ブルゴーニュ公との和約は不平等なもので、シャルルはその活動を封じられ、ジャンヌたちにとっても無為な日々が続いた。ある日のこと、ジャンヌは宮廷の庭園で突如奇声を発した。

唯一つ現存する生前のジャンヌのスケッチ。裁判官の

ジャンヌはコンピエーニュの町の防衛に駆り出された。半
年近くの待機から解き放たれ、この日のジャンヌの働きはすさまじかった。しかし疲れていたのだろう、ブルゴーニュの援軍の手によって煮えたぎる油を全身に浴びせられ、気を失ったところを捕らえられた。彼女を捕らえたブルゴーニュ軍は彼女を1万フランでイギリス軍に売り渡たす。彼女は魔女として宗教裁判にかけられた。裁判は一応1431年5月24日ジャンヌが自分の誤りを認める書類にサインして終了28日更に難癖をつけられて、とうとう30日火あぶりの刑に処せられジシャルル七世は彼女を救出することには消極的で、「戦いに加えなければ殺すと脅かされた」とまで語っている。裁判は一方的に進められた。、彼女が異端者であるという告発にも反論はできなかった。
ブルゴーニュ公の思惑
ジャンヌを捕らえることは、一石二鳥の意味  (1)イギリスに売り払うことで、イギリスへの義理を果たし、
(2)同時にシャルルを満足させ、有利な形でフランスと和平する、フランスとの和平を決意したブルゴーニュ公は、この話に乗った。シャルルとの協調路線に方向転換した。
ジャンヌ火刑

1431年2月21日から始まった審理は
14回を重ねて結審。法廷は、彼女を単なる「思い込みの強い女」にして、残酷な処刑から救おうと努力もした。
しかし彼女が頑なに「直接神的存在に触れた」と主張した
神の声は教会経由でなければならなかったし彼女の男装も槍玉にあがった。1431年5月28日異端と宣告されジャンヌ・ダルクはルーアン市の市場で火刑に処された。ジャンヌの最期は壮絶であった。十二時間後に死亡した。残った灰は全てルーアン大司教によって清められ、鉛の箱に詰めて海に投じられた。
ドンレミ村からルーアンでの悲劇的な死までの2年間のジャンヌの旅。それは2度と帰らぬ死の行軍でもあった。
ジャンヌを死追いやった3王
フランス王 ブルゴーニュ公 英国王

腹黒い王は言い放った。『なに小娘一人の命で済むなら安いもんだ。』

戦い済んで
百年戦争自体はこのジャンヌ・ダルクの1年にわたる大活躍でフランスの勝利がほとんど確定、その後状況が変わることはなく1453年和平が成立。
ジャンヌの悲劇
は政治の卑劣さ・冷酷さ同時に政治の力学も誤作動。当時吹き荒れていた魔女騒動も無縁ではない。 ジャンヌ・ダルクは戦時中のこととはいえ一応魔女として処刑された。そのため名誉回復が遅れた。救国の英雄との自己PRも兼ねナポレオンそしてドゴール大統領もジャンヌを賛美した。彼女が列聖されるのやっと1920年である。
宇宙に二つの太陽はないように二人の国王は要らない。ジャンヌ自身野心を持ってないとしても、反シャルル派の領主達がジャンヌを利用して、シャルルを排斥する可能性もあった。再び戦争が起こる。中央集権国家を確立するためにはジャンヌは邪魔でフランスを分裂・混乱させないために、彼女の処刑は絶対必要だった。シャルル7世は巧みな策謀家と言える。こんな陰険な男に忠誠を尽くし命まで奪われたジャンヌの冥福を祈ろう。
ジャンヌの実像
映像メディアのない世紀に生きたジャンヌの実像は知る由もない。が殆どの資料は彼女の裁判記録から得たもの。客観性に富んだ第一級の基礎資料だと思う。ジャンヌは丈高く美しくまたバランスの取れた冷静な人柄だったと伝えられている。信じられる。
騎士ジルのその後
青髭のモデル

騎士ジルは共に戦場を駆け巡るうちジャンヌを聖女として崇拝するようになる。だが愛するジャンヌが魔女として火あぶりの刑に処される現場を立ち会わせられるとジルはその悲惨な光景に衝撃を受け錯乱した。狂気の余り悪魔のごとき男へと変貌した。黒魔術と幼児大量虐殺へ突き進んで行き青髭のモデルと言われた。錬金術にも手を染めジャンヌと同じく異端の罪で処刑された。36歳だった。
ジャンヌの年表

TOPに戻る