Louis-Antoine Duc d'Enghien1772年〜1804年

ナポレオン暗殺計画
英雄ナポレオンの人生最大の汚点はコンディ家の王子アンギアン公の惨殺といわれている。ナポレオンのブルボン王家弾圧政策の一環である。ナポレオンは政権を取ったもののフランス最大の領地を持つ筆頭親王家ブルボンコンディ家の存在は脅威だったに違いない。そのうえ警察長官フーシュは「空気は短剣に満ちている」と、ナポレオン暗殺計画があることを警告していた。ナポレオンとジョゼフィーヌはテュイルリー宮殿に移ったが,その直後に町で暗殺未遂に遭う.
コンデ家王子処刑
バスティーユ陥落の数日後にはコンデ家一族で亡命。亡命先はバーデン公国エッティハイムの祖母の実家ロアン家の所領。第一統領であったナポレオンは誤報を信じ国王のいとこアンギアン公の逮捕にストラスブルグに赴かせそこで尋問の末パリに連行させた。3月14日深夜から15日にかけてのこと。3月20日午後5時彼はヴァンセンヌの奥深くに幽閉された。やがて公の墓場となる堀は手回しのよいことに既に掘られていた。夜の12時半に叩き起こされて、軍法会議メンバーの7人の大佐の前に連れ出された。1時間後に死刑が宣告され、公爵は堀の中に大きな口をあけている自分の墓の前に立たさた。銃殺隊は16人の憲兵。彼等の銃口が一斉に火を噴き処刑は実行された。公の死から数日後公の愛犬モヒロフはヴァンセンヌの住民が政府に訴えるまで吠えつずけた。ひとりの従者もなく愛犬モヒロフだけが公子の虐殺された場所に寄り添った。女王館の足もとの堀に公の遺体は投げ込まれて放置された。ルイ18世は遺骸を発掘しチャペルに移した。その後ナポレオン3世の命令で納骨堂に納められた。公にかけられたイギリスとの内通容疑は証拠なしだった。
森の塔とアンギャン公爵記念柱 。森の塔はル・ヴォーによって上部を削られ、正門風に作り替えられた(内側から見ると凱旋門風になっている)堀を越える橋の右手、王妃の塔の側に円柱が立っている。
モヒロフのその後
モヒロフは公の墓の上で数日間啼き続けた。これを見かねた近隣の人々は、城を管理していたアレル司令官に救出を求めた。モヒロフは司令官の妻の手にゆだねられ、次いでBethisy侯爵にひきとられた。侯爵はモヒロフの死後、これを剥製にする。侯爵の死後、モヒロフの剥製は、ストラスブールにあるミュゼ・ドゥ・パレ・ロアンに移された。
コンデ家3代の悲劇
祖父ルイ・ジョゼフ
Louis-Joseph, Prince de Cond(1736年〜1818年)妻はロアン家のシャルロット。八代目のルイ・ジョゼフは、七年戦争に参加、自由主義的貴族となり、名士会の一員に選ばれた。フランス革命では王政を支持し、オーストリアに亡命して<コンデ軍>を組織し反革命運動を指導.のち軍隊を解散しアルトワ伯のいるイギリスに亡命。1814年王政復古で帰国しルイ18世の宮廷に仕えた。78歳で帰還した美しいシャンティー城は荒廃しきっていた。
1818年、パリにて突然の自殺を遂げる。  
父 ルイ・アンリ・ジョゼフ
1756年〜1830年。名士会議(1787〜1788)には父とともに出席して、あらゆる改革に反対した。1788年12月2日には、父コンデ大公、子息アンギアン公、コンティ公、王弟アルトワ伯とともに参内し、全国三部会における頭数による投票に反対する覚書をルイ16世に提出した。1789年7月15日から17日にかけて一族とともに亡命し、コブレンツ市において父の組織したコンデ軍に参加し、反革命運動を続けた。1799年以後イギリスへ隠遁。1814年 王政復古で帰国してルイ18世に仕える。シャンティイ城に帰還その後の父と息子の悲劇が始まる。城は破壊し、庭園は分断されて見る影も無かった。1818年、ルイ・ジョセフが自殺。1830年の革命で従兄のルイ・フィイリップが王位につくためブルボン公は不安になり、イギリス亡命を考える。数日後、1830年サンルーの自分の城で自殺体となって発見される。
(ルイ=アントワーヌ=アンリ=ド゙=ブルボン・コンデ゙)1788年12月12日、祖父コンデ公、父ブルボン公、親族のコンティ公、王弟アルトワ伯とともに国王ルイ16世に対し、第三身分に譲歩せぬよう奏上するべく列参。革命とともに亡命し、父とコンデ軍を組織し反革命運動を行った。
エッティンハイム
バーデン大公国のエッティンハイムは「首飾り事件」で有名なロアン大司教が隠棲していた。エッテインハイムは代々ロアン家の領地だった。コンデ一族はルイジョゼフ妃の実家ロアン家を頼って亡命した。
秘密結婚
ロシュフォール公爵夫人
シャルル=ジュール=ド=ロアン・ロシュフォール公爵の長女。革命のあとコンデ一族は亡命。反革命軍事行動を打ち切ったコンデ大公はイギリスに亡命を決意。故妃の実家であったロアン家に孫アンギアン公の保護を求めた。コンディ家の唯一人の直系の孫こそアンギアン公だった。この地でアンギアン公は、5歳年上のロシュフォール公爵夫人との束の間の穏やかな生活を送ることとなった。コンデ大公はアンギアン公妃をヨーロッパの王族から迎えることを望んだ。そのため公爵夫人との結婚を認めなかった。恋人達は1803年11月に死後の公表を条件とする秘密結婚をした。アンギアン公の死後、彼女は公妃を自認して喪に服した。1815年フランスへ王政復古によって帰国した。男装した彼女がヴァンセンヌ城塞の上からアンギアン公が銃殺された場所に花束を投げる姿が住人に度々目撃された。公の死後彼女はナポレオンへの怨念に縋って生きた。宿敵ナポレオンのセントヘレナでの死でも彼女の深い哀しみは癒えることはなかった。
暗殺に関わった人々
宰相タレーラン
大貴族ペリゴール伯爵にしてオータンの司教。右脚は、生れつき内反足にして母に疎まれて育つ。1799年のブリュメール18日事件の陰の立役者としてナポレオンを支持、ナポレオンの外相。しかしその将来にタレイランは『現政府は沈みゆく船』と見切りをつける。ロシア皇帝アレクサンドル1世に接近し、ブルボン王家のルイ18世の王政復古に暗躍した。1815年のウィーン会議に出席、列国の利害対立を巧みに利用し、正統主義を唱えて敗戦国フランスの利益を擁護、その戦争責任を回避した。 お前は余のスペイン出兵を悪しざまに吹聴しているが、あれを余にけしかけたのは、そもそもお前ではないか・・・・。・・・・アンギアン公を厳しく処刑せよと余に迫ったのは誰か・・・・。タレイランはびっこをひきひき、広い廊下を返っていったが、そのとき彼は、自分の受難のありさまを目撃していたある人に向かって、そっと、「あれほどの人間が、育ちの悪いのはまことに気の毒なことだ」といった。
(ダフ・クーパー著『タレイラン評伝』中公文庫)
ミュラ
(1767年 〜1815年)

ナポレオンの妹カロリーヌと結婚し、武勇に優れナポレオンをして「世界最高の騎兵」と賞賛させた。高位の軍司令官としては判断力、決断力共に欠けてミスが目立った。1808年にはナポリ王位を与えられヨアヒム1世を名乗る。 アンギアン公銃殺に遅れること11年、1815年ナポリ王により銃殺の刑に処される。フランス国王に復位したルイ18世がミュラの処刑を命じたのは、1804年に起こった親族アンギャン公処刑の復讐とも言われている。

サバリー
(1774年〜1833年)
ナポレオン配下の軍人。1800年にナポレオンの幕僚となり、その第一帝政期に秘密警察を指揮し、1804年アンギアン公の秘密裁判の際の裁判長であった。1805年師団長となり、オストロレンスカ、フリートラントにおいてロシア軍を破り1807年にはロヴィゴ公爵に叙された。1810年から1814年までフーシェ失脚後の警察大臣。百日天下でナポレオンに従い、セント・ヘレナ島へ随行しようとしたが果たせなかった。1830年<七月革命>後、ルイ・フィリップ王のもとでアルジェリア総督となる。
ブルボン家について


ルイ9世の第6子であるクレルモン伯ロベールが婚姻によりフランス中部ブルボンの所領を獲得。その子ルイ1世がフランス王シャルル4世によりブルボン公に叙せられたのがブルボン家の起こりである。フランスブルボン王家はアンリ4世が創始者となり、太陽王ルイ14世の時代最も繁栄した。フランスの筆頭親王家。フランス 革命やナポレオンによって家系は一時中断。ルイ18世が即位し、シャルル10世が王としては最後の直系。コンデ公をブルボン公ともいう。現在のスペイン王家でもある。
シャンティーイ城

森を背景に建てられたこの広大な城館は、1769年コンデ家の公子たちが主催する大掛かりなレセプションのために考案されたもの。18世紀、シャンティイーで開かれるパーティーや狩猟へは、王室の家族や大使などが頻繁に出席し、これら多数の招待客を収容する広大な館が必要とされた。 1830年オマール公アンリ・オルレア(1822?1897)まで引き継がれ、オマール公は8歳にして、大叔父であるコンデ公子からシャンティイーの領地を受け継ぐ。オマール公は、収集していた絵画、素描、美術工芸品や稀覯本などの数々を保管、展示するために、フランス革命時に崩壊したグラン・シャトーの再建をなし遂げた。1884年、直系の後継者を持たないオマール公によって、コンデ美術館の一般公開を条件に、公の領地に関わる財産の全てがフランス学士院に遺贈。現在アンギアンの城館には、シャンティイー城の保存と管理を行なう。悲劇の王子アンギアン公の名の館はフランス学士院の会員の住居にあてられている。
コンディ家の終焉
ブルボン家復活を恐れたナポレオンにより非業の死を遂げた若き王子は絵画戯曲小説のモティーフとなった革命はいつも無数の悲劇と血に彩られている。

シャンティーイ城の黄昏に続く
参照 LE SANG DU PRINCE  Florence de Gaudus著

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