Grace Elliottフランス革命を生きた英国女性

英国での日々
1754年弁護士ヒューダンプリングの末娘としてエジンバラで生まれる。両親が早く離婚したのでフランスに送られる。15歳までフランスの修道院で教育を受けた。
結婚と離婚
フランスより帰国後エディンバラで社交界にデビュー。19歳でジョンエリオットと結婚。20歳年上の裕福な内科医だった。遊びたい盛りの10代の新妻は彼女に言いよる紳士達の間を飛び回った。彼女は1774年にヴァレンシア公と駆け落ちまでやってのける。
クルティザンヌ誕生
少々遊びの過ぎた新妻エリオットは離婚され、再びフランスの修道院に送られる。エリオットは離婚調停によって12,000ポンドもの賠償金を受け取った。ことはそれだけでは済まず、グレースは彼女の実の兄弟によって監視されフランスの修道院に監禁された。彼女は彼女の崇拝者であったコルモンドレー公によってすぐさま救出されロンドンにまた舞戻った。この間多くの紳士の愛人として過ごす。 Charles Windham, George Selwyなど多数。この時代離婚された妻の人生は限定されていた。彼女は生涯の生業となるcourtesan としての道を歩み始めた。時代はまた奔放で彼女達の生業に暖かかった。
courtesan to royaltyとしてますます磨きがかかったエリオット。この頃トーマスゲインズボローに3枚も肖像画を描かせる。1778年のこの『Mrs Grace Dalrymple Elliot』等身大の肖像画は現代ではNew YorkのMetoropolitanMuseumの館蔵品。この肖像を偶然観た稀代の女好きの皇太子は友人に訊く。『この女性は何処にいる?』こうしてグレースは修道院から皇太子の遊び仲間から救出された。
ジョージ4世(1762年〜1830年)

若い頃より身持ちが悪く、放蕩と浪費を繰り返す。王妃の離婚など私行上問題も多々。彼の不品行は父王の精神障害の原因とさえ言われたが、功績も残した。その一つが、ステュアート王家から王位を奪ったとして反ハノーヴァー王家の空気が根強いスコットランドへ訪問して両国の関係改善に貢献した。反面彼は実に魅力的で、芸術や文化面にも優れた感性を発揮した。建築家ジョン・ナッシュにロンドン市街再構築を依頼した。ブライトンの町に彼の王宮や家具、カーテンまでもをデザインさせた。その後彼の時代の優雅な建築物、ファッション、家具、食物等を物語るものとして「リージェンシースタイル」という言葉が誕生した。フリーメーソン会員。

1782年に皇太子との間に1女をもうける。長女を出産した後、彼女は、後の王子も含めて複数の子供に恵まれた。王族貴族御用達の高級娼婦courtisanとしての彼女のセールスポイント。。。その聡明さと教養だった。こうして彼女は18世紀の最も有名なクルティザンヌとなっていく。
フランスへ
1784年ジョージ4世は親友オルレアン公に彼女を紹介する。2年後から二人の情事は始まる。パリに旅立ち、激動の1790年代を過ごすことになる。こうしてグレースは18世紀のクルティザンヌとして英仏双方の権力者の寵姫として生きた。こうした生活を通じ貴重なフランス革命の記録を残した。
オルレアン公
王位を狙うオルレアン公。民衆の人気が欲しいオルレアン公には「自由のための殉教者」という身分不相応の評判を手に入れた.国王ルイ16世の財政立て直し案を否決して高等法院の議場で逮捕されたから。彼はパリの民衆の『Vivat Orlean!』という歓呼が大好きだった。平等公を名乗り啓蒙貴族のふりをしたが王位簒奪志願者である正体は隠せなかった。グレースの他にも寵姫ぞろぞろの公爵とグレースの仲は余り続かなかった。
オルレアン公夫人(1747〜1821)

Luisa_Maria_Adelaida_de_Borbon_Penthievre。父はルイ14世の孫、パンティエーブル公。兄ランバル公とともに、ルイ太陽王来の莫大な財産を所有した。 1769年オルレアン公と結婚して3男1女をもうけ、長男はのちにフランス人民の王ルイ・フィリップとなった。1793年、夫の逮捕とともに捕らえられて長く獄中にあった。ルーゼ議員の尽力によってスペインに亡命。1814年の王政復古によって帰国した。国王裁判の時ルーゼが死刑反対に票を投じた数分後夫フィリップ・エガリテが死刑賛成投票をした。のちルーゼ議員はエガリテ未亡人の出国に尽力し、さらにその愛人となるとはあの世で夫オルレアン公は苦虫を潰していただろう。
Madame Genli(1746〜1830)
野心家の叔母モンテッソン夫人に連れられて、パレ・ロワイヤルに出入りする。夫シルリー侯爵とともに、いわゆる「オルレアン派」のメンバー。
グレ−スと交替する形でオルレアン公フィリップの愛人となった。オルレアン公の子供達の家庭教師。教育家にして小説家。百科全書派でルソーの信奉者であった彼女は、フリー・メーソンの女性メンバーでもあった。フランス革命では、オルレアン公に有利な状況をつくるために努力した。1790年公とともにイギリスに渡り1793年帰国。
革命前後風雲急を告げる情勢を悟ると弟ヴァランス伯爵を頼ってトゥールーネーに逃亡。ここでデュムーリエ将軍の陰謀に加担した。のちオーストリアに亡命した。「回想録」を残す。
革命の仕掛人
国際ユダヤ資本がフランスフリーメーソンなどがフランス革命やアメリカ独立戦争を引き起こしたと一部でいわれている。王位簒奪志願者としてのオルレアン公フィリップの暗躍は革命のキーパーソンの一人といって過言ではない。歴史家の多くがフランス革命の予兆を王妃マリーアントワネットの首飾り事件に観る。この首飾り事件もヴェルサイユの行進もオルレアン公の策略と言われている.オルレアン公のミニミニ都市開発?パレロワイヤルこそ革命の温床だった。
コデルロス・ド・ラクロ

1741年〜1804年。小説「危険な関係(Les Liaisons dangereuses)」の作者。
ラクロは南フランスの駐屯地での貴族たちの生活をモチーフに1782年に「危険な関係」を著した。 当時のアンシャン・レジームと呼ばれた貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を活写した。がその内容は、上梓当時は多くの人の顰蹙を買いつつも広く読まれた。その優れた構成からも近代心理小説の最高傑作とされている。スペイン系ユダヤ人でオルレアン公の秘書官でもあった。
パレ・ロワイヤル


オルレアン公は当時の王侯貴族の例に漏れず派手な生活で巨額の負債で喘いでいた。そのためパリの中心地のパレ・ロワイヤルをに変貌させ不動産経営を思いついた。融資したのは国際ユダヤ資本といわれている。。この改築によってパレ・ロワイヤルには住宅、アーケードなどの商業施設、劇場などの娯楽施設がそろいちょっとした1つの都市を形成した。その結果パレ・ロワイヤルは宮殿を保持しつつも公共へと開かれたのである。1789年7月、弁護士カミーユ・デムーランは不平分子に向かい「武器をとれ!」と煽動。フランス革命の最初のデモ行進はこの場所から始まった。。その翌日バスチーユ監獄襲撃事件が起こり、フランス革命へと発展していった。
革命当日のグレース
1789年7月12日グレースは公爵の城に釣りの宴に出掛けていた。フランス最大の地主であるオルレアン家の居城のひとつ。英国好きの公爵が設計させたフランス初の英国式庭園である。この宵一行はコメディイタリアンヌへ観劇の予定だった。 既にオルレアン公との恋愛関係は終わったがフランス革命の間パリに留まり恐怖政治を生き抜く。グレースと公爵の仲ははお互いを思いやる深い友情に昇華していった。この間グレースの投獄は4回に及んだ。英国人とはいえ心情的にはフランス人の王党派のグレース。平等公と称し革命支持者のオルレアン公。二人は立場主義主張が大きく異なる。その溝も彼等二人の信頼を崩すものではなかった。
フランス革命勃発
王の監獄バスティーユ襲撃 。民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落。こうしてフランス大革命の火蓋が切って降ろされた。以後ナポレオン登場で革命収束までフランス全土が血に染まった狂乱の時代が続く。
1789年10月、数千人の女性を中心としたパリ市民が、国王と王妃に「人権宣言」を認めさせようとしてヴェルサイユに押しかけた。女性達の後にラファイエット将軍の率いる市民軍も続いた。この日ルイ16世とマリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿を離れた後、この宮殿には二度とフランス国王が住むことはなかった。
パリ市民達はルイ16世に「人権宣言」を認めさせた後、国王一家をパリのチュイルリー宮殿に住まわせた。テュイルリー宮殿に侵入してきた民衆は王妃をタンプル塔へ、ランバル公爵夫人をフォルス牢獄へ収監。
悲劇のランバル公爵夫人

ルイ14世太陽王の曾孫ランバル公爵と結婚。夫の死後、マリー・アントワネットのちポリニャック伯爵夫人の後任として宮廷女官長となる。王家の子供たちの養育係も勤めた。才色兼美で王妃に忠実に仕えた。
革命の勃発により一時国外に亡命したが、王妃と運命を共にするために帰国。1792年の九月虐殺の犠牲になった。死体は切り刻まれ、その切断された首は槍に突き刺されて、タンプル塔に幽閉されていたアントワネットに届けられた。義弟に当たるオルレアン公が食事中のパレロワイヤルにも届けた。なんの罪も無い公爵夫人はこうして革命中最も悲惨な死を遂げた。

そのとき夫人の友人でもあったグレースはこう叫んだ。『何と言う時代なの?』
恐怖政治

マラーの死後ジャコバン党を指揮したのはダントンとロベスピエール。が二人は恐怖政治をどんどん先鋭化していく。結局このジャコバン党政
権下でコンコルド広場のギロチンで処刑された人の数は10ヶ月間に2800人にのぼる。処刑者は14,000人。フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法は、銃殺刑も多かったが、ギロチンによる刑が主流。ただし裁判なしの殺害や、獄中死も多くそれらをふくめると犠牲者は4万人を超えると推定される。ロベスピエールは清廉潔白ながらエキセントリックな闘志だった。
ルイ16世の処刑

12月4日から国民公会で国王裁判が始まった。1793年1月15日には有罪宣告が下った。ジロンド派は無期,または死刑でも執行猶予を,山岳派は即時死刑を主張した。国王の従兄弟のオルレアン公までが後者に加担た。18日の票決は387対334で死刑が決定。この評決の日グレースに棄権を約束したオルレアン公の裏切りにグレースは激怒。21日にコンコルド広場での国王処刑。王の処刑はヨーロッパ列強はもとよりイギリス政府をも震撼させた。これが第1次対仏大同盟の締結を促した。
オルレアン公刑死
1793年1月18日、国王裁判の日。彼は何らためらうことなく従弟ルイ16世の死刑に票を投じた。そのため彼はすべての国民から非難されたし、ロベスピエールでさえも「彼は忌避されうる唯一の人間である」と宣言した。
1793年3月27日、デュムーリエ将軍が革命政府の打倒とオルレアン家王位擁立を謀って失敗すると彼はジロンド党によって告発され4月3日に逮捕された。ブルボン一族とともにマルセイユのサン・ジャン城に幽閉された。ジロンド党が失脚しても彼の釈放はなかった。彼が裁判に引き出されたとき、王位を狙ってないと否認。彼が買収し煽動をした数々の謀略を知っている人々にはこの言い訳は通じなかった。結局彼はルイ16世が処刑された同じ年の11月6日の夕刻、革命広場で断頭台の露と消えることとなる。処刑のとき、彼の細身の長靴を脱がせようとすると「あとからやったほうが脱がせやすかろう」と。これがオルレアン公の最期の言葉となった。
グレース解放
公爵の刑死後グレースもまたギロチン台を待つ身だった。だがロベースピエールの失脚という事態で奇跡的に釈放された。テルミドールの反乱勃発。革命暦で熱月(テルミドール)8日、カンボンやタリアンらの、ロベスピエールと対立し始めた一派が先手を打ってロベスピエール一派を根こそぎ逮捕。有無を言わさず翌日処刑して恐怖政治を終わらた。タリアンらは一時的に政権を掌握するもののあまり指導力はなく政府は混乱。
オルレアン公と革命
近代フリーメーソンは1717年6月24日、ロンドンでのグランド・ロッジ結成によって発足した。1725年パリ、1726年プラハ、1728年マドリード、1733年イタリアおよびボストンと、またたく間にヨーロッパ中に拡がった。1733年126ロッジを数えるまでになっている。
1738年に法王クレメンス12世が「フリーメーソン否認の勅命」を発布した。メーソン員はローマ教会から破門されることになった。以後メーソンは無神論者の政治的秘密結社として地下に潜る。これが1773年のグラントリアン・ド・フランス(フランス 大東社)結成のきっかけとなった。フランス大東社はイエズス会の修道院に本部を置き、オルレアン公ルイ・フィリップをその長とした。
フランス革命は、王侯貴族や僧侶(特にカトリック教会)の手から政治を奪い取ることが目的。ブルジョア革命を通じて、王侯貴族や僧侶をフランスから駆除しそれに代わって、国民会議の名を以て、ブルジョアが頭角を顕わすと言うふうに仕組んだものだった.王位を取って代わりたいオルレアン公には革命は千載一隅のチャンスだった。王妃マリーアントワネット大好きのグレースは度々オルレアン公を諌める。論客のグレースにオルレアン公はたじたじ。だが公はもはや若く野心溢れる家庭教師兼愛人のジャンリ夫人のいいなりだった。
7月王政

ルイフィリップ 

家庭教師兼父の愛人ルソーかぶれのジャンリ夫人より教育を受けた。幼時より啓蒙思想に親しみ,大革命の勃発後ジャコバン=クラブに在籍のち義勇軍に投じた。ヴァルミーの戦勝があるも北部戦線での敗北後スイスに亡命。地理学・数学・近代文学の教師として細々と暮らした。そののち1795年のハンブルクを皮切りに北欧諸国,さらにアメリカ合衆国と転々。1801年から1807年にはイギリスのトゥイッケナムに住んだ。ここは亡命フランス貴族の移住先だった。1809年両シチリア王国のフェルディナンド4世の娘と結婚。1793年11月の父の処刑の報に接しオルレアン公となった。1830年にフランス7月革命でブルボン朝が倒れるとプルジョワジーから擁されて国王となった。ルイ・フィリップは「フランス国民の王」を称した。王政復古後は莫大な資産を回収し投機や亡命貴族に対する賠償金によりさらに蓄財した。
2月革命
『フランス人民の王』どころか『株屋の王』と皮肉られた王らしく選挙権を一部の富裕階級にしか与えなかった。ウィーン体制打破の風潮が及んできたこと等が要因となり1848年革命が起きた。ルイ・フィリップはイギリスに追放された。こうして7月王政は終わり、オルレアン朝も1代で終わった.彼はフランス史上最後の国王となった。ヴィクトリア女王からクレアモントの居館をあてがわれた。。
晩年のグレース
Ville d'Avrayで死去。ナポレオン自身が彼女にプロポーズしたと語っている。豊かな老後をこの地で送った。回顧録は1801年にジョージ3世の勧めで書く事になる。グレースの死後孫娘がJournal of My Life During the Revolutionを出版。
 フランス革命の年表 グレースが生きた時間を共有しよう。まさに激動の時代、刻々と歴史が動いているのがよくわかる。
参照
HP画像の多くを拝借、感謝。
DVD 『グレースと公爵』
Grace Elliott Journal de ma vie durant la Revolution francaise

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