ブルボン大元帥秘史
| シャルル3世 Charles III |
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1490年〜1527 年父:モンパンシェ伯ジルベール
1496年~1505年 モンパンシェ伯 1505-1527 ブルボン公 1527年 皇帝軍司令官ブルボン元帥 1527年 ローマ攻撃 妻:ブルボン公シュザンヌ ヴァロア王家。。。と簡単に記述できる短い人生。 |
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ときは16世紀。『ブルボン大元帥秘史』『フランシワ1世治世下パリ1市民の日記』母后自身の私情を見せぬ記述の『思い出の記』。。。これらの第一級の史料のお陰でそれから4世紀隔てた我々でも一組の相思相愛の美しいカップル悲しい恋の果てを知ることになる。歓びと哀しみというより殆ど涙でで彩られた物語が息遣い迄蘇ってくるようだ。 | |||||||||||||||
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アランソン公妃マルグリット
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マルグリット・ド・ナヴァル |
1492年~1549年アングレームに生まれる。ナバラ王エンリケ2世の王妃。フランス・ルネサンス期の文芸の庇護者として知られ、自身も『エプタメロン』等の作品を残した。フランソワ1世の姉。ブルボン公とは相思相愛であったと言われる。1509年にアランソン公シャルル4世と心染まぬ最初の結婚をした。夫に先立たれた後の1527年に、ナバラ王エンリケ2世と再婚した。彼女は宗教改革の黎明期から理解を示した開明な女性だった。王妃はまたナヴァルの宮廷を人文主義者(ユマニスト)の拠点にした。深い文芸的素養に恵まれたマルグリット王妃に当時の作家、ラブレー等競って著書に献辞を捧げた。 |
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母后ルイズ・ド・サヴォワ
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Louise de Savoie
ルイ12世の従弟1488年にアングレーム伯シャルルと結婚。ルイズ・ド・サヴォワ は理知的な女性で策謀家。19歳で早くも夫のアングレーム公 を亡くした。美しかったとか。女手ひとつで?2人の子を育てたが、息子が将来必ずや王位に就くという確信から帝王学を施した。野心家の母の後押しで息子は国王ルイ12世の女婿となる。息子の治世になってからは王の出征中などに2回に亘って摂政役を果たした。若い王は生涯母后に頭が上がらなかった。彼女は領地のコニャックやアンボワーズに蟄居。王妃アンヌからは陰気で横柄な女だと嫌われていた.アンヌ王妃は1人娘クロードの娘婿にルイーズの息子になるのを大いに渋る。がルイ−ズの粘り勝ち。 |
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恋に落ちた母后
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寡婦である母后は娘マルグリットとブルボンの若君が相思相愛なのを察知。自分も又ブルボンの若君にひと目惚れし猛烈アタック。がもはや中年にさしかかった女としての情念だけではない。未だ王権の確定してない我が子フランソワ1世のため抵抗勢力に成るやも知れぬブルボン家をヴァロア王家の一員とする権謀術数もあった。自分のブルボンの若様との再婚の青写真を勝手にひいた。このとき彼女は38才。 |
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ブルボン公の結婚
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ブルボン公から優雅で丁重な愛の拒絶に母后は一転愛から憎しみの炎を燃え上がらせる。以来彼女の執拗な攻撃はブルボン公の死に至るまで続く。1505年僅か15歳で従姉妹のシュザンヌと結婚。同門の姫との結婚によりオーベルニュ領の後継者になったブルボン公はフランスはおろかヨーロッパ一二を争う豊かな封領を持つ身となった。 |
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| マリニアンの戦い | ||||||||||||||||
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先王ルイ12世が失ったミラノ公国を奪還すべく新王フランソワ1世兵を整え張り切ってイタリアに向かった。実のところ国庫はからから。王家の金銀の什器を溶かして貨幣に変えやりくりの果て軍資を調達。総勢3万人のそれは見事な軍備をした。フランス軍はアルプス越えしイタリアに侵入した。両軍はミラノ郊外マリニャンの平地で激突した。フランス軍は前衛にブルボン公後衛にはアランソン公(マルグリット姫の最初の夫)本隊はフランソワ王自身が指揮。こうしてフランソワ1世はイタリアにおける支配力を獲得した.新王を助け目覚ましい武勲をあげた公に対しブルボン大元帥の称号が贈られる。 |
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| ブルボン公逆臣となる | ||||||||||||||||
| 1523年、母方の従妹でもあるブルボン公妃シュザンヌが死ぬと母后はその相続に難問をつける。じりじりとブルボン公を追いつめていく母后の陰険さは凄まじい。だがこのとき母后は大きな失敗を犯す。シュザンヌの遺領ボージュの相続を主張し、夫であるフランス大元帥ブルボン公シャルル3世を訴えるという暴挙にでる。訴訟問題はこじれ、ブルボン公とフランソワ1世の仲をも険悪にした。やがてブルボン公の全財産没収の決定が下される。度重なるフランス王家の迫害で(元凶は母后)でついにブルボン公はカール5世のもとに走る。カール5世が自分の姉エレオノールをブルボン大元帥の後添えにと目論んでいたこともあった。 |
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| パヴィアの戦い | ||||||||||||||||
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こうして武勇の人ブルボン公という指揮官を失ったフランス軍。この後1524年のパヴィアの戦いで大敗しフランソワ1世は馬から引きずり降ろされ捕虜となる。今は王の敵軍の武将となって戦う元フランス大元帥ブルボン公の姿があった。この戦いで執拗にアランソン公妃に横恋慕していたボニヴェ提督もアランソン公も死んだ。フランソワ1世はスペインに送られ約1年マドリッドで虜囚生活を送る。幽閉先はマドリッド近郊のアルカザールの地上33mの高さの小さな塔。侘しい部屋での厳しい監視も付きの生活だった。途中姉のマルグリット姫が見舞う。母ルーイズはしっかり留守を守った。マドリード平和条約を渋々締結しミラノとナポリを手放す代わりに自由の身となる。母后の獅子奮迅の働きで、フランスは一致団結し、内乱や謀反が起こることもなく急ピッチで国力を回復させた。 | |||||||||||||||
| ローマの掠奪 | ||||||||||||||||
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1万5千人のドイツ人傭兵を中心とする神聖ローマ皇帝軍が永遠の都ローマに侵入した。1527年5月6日、ついにローマでの皇帝軍と教皇軍の衝突が始まる。完全に指揮系統を欠いた暴徒と化した群は掠奪の限りを尽くしローマの市街は廃墟と化した。約10日この惨劇は続いた。ヴァティカンの礼拝堂は馬小屋に使用された。この破壊がいかに徹底したものだったかは多くの文献が残っている。スペイン兵が最も狂暴だったとも言われる。略奪の原因は統制を欠く混成軍団が、長期の行軍後、暴走、収拾がつかなくなった事が原因。 皇帝軍は閉ざされた城門を打ち破り、城壁をよじ登ってローマの街への侵入を図った。その際、城壁を登ろうとしたブルボン元帥が火縄銃を浴びて倒れた |
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| ブルボン公の最期 | ||||||||||||||||
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今は逆臣となったブルボン公はかっての味方フランス軍に顔面を射抜かれた。記録はこう伝える。『殿の最期の瞬間はアランソン公妃の思い出で占められていた』また秘史はブルボン公が最後の力を振り絞って生涯の愛に生きたアランソン公妃への思いを口述させたとある。1526年マルグリット姫はナヴァール公妃となる。渡されたブルボン公の遺書を手にしてナヴァール公妃となった姫は『健気な殿の追憶に涙を流された』 |
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| ブルボン公領 | ||||||||||||||||
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ブルボン大元帥のローマでの死の後公のオーベルニュの領地はフランス王家へブルボンとフォレの領地は母妃ルイ−ズドサウ゛ォアのものとなった。つまり母と息子で山分けした。 |
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| 母后の邪恋の果て | ||||||||||||||||
| ひとりの女の妄執が恋人達の運命を狂わせ無惨な死に追いやった。フランス宮廷一の公達を死地に赴かせ花の命を奪ったとき。彼はまだ37才だった。何故フランスきっての大貴族、数々の武勲で大元帥まで上り詰め、国王に弓引き逆臣として戦い異国の地で凶弾に顔面を射抜かれて死ぬ運命だったのか。5世紀も前の悲恋が蘇る。 | ||||||||||||||||
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フランソワ1世の治世
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1494年〜1547年。西南フランスコニャック出身。フランス国王(バロワ朝第9代) ルイ12世に嗣子がいなかったため、その王女クロードと結婚し、21歳でフランス王位を継ぐ。 神聖ローマ帝国の皇帝選挙で帝位をめぐってハプスブルク家のカール5世と争ったが敗北。その後、イタリア戦争で20年以上に渡り因縁の対決を繰り返す。パヴィーアの戦いでは王自ら皇帝軍の捕虜になる。時には条約を反故にしたり、異教徒のオスマン・トルコとも手を結ぶなど手段を選ばぬ外交政策で激動の時代を巧みに乗り切った。フランスの絶対王政の基礎を築いた。1524年妃クロード姫死去ののち王はその領土ブルターニュをフランス領へ吸収。カール5世の姉を後添いに迎える。王は学芸を保護しフランスルネッサンスの父と云われる。また内政面では官僚制度の整備、財政機構の改革などで王権の強化に努めた。レオナルドヴィンチの最期を看取ったと言われるが事実ではない。アンボワーズ城で庇護したことは確か。モナリザがルーブル美術館にあるのは王との縁である。イタリア大好きが嵩じて長男の嫁までイタリアから貰った。 |
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ブルボン公亡き後のこと
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6月6日王はさんざ身代金を釣り上げられた末ついに皇帝軍に40万ドゥカートという破格の額を支払い降伏。教皇と数人の枢機卿は捕囚の身となり皇帝軍の占領は続く。クレメンス7世も多額の保釈金を上乗せしやっと自由の身となったのはさらに半年後のこと。この皇帝軍の略奪壊滅的な打撃を受けた永遠の都ローマは、ルネサンス芸術の中心地としての役割をここで終えることになる。1528年 皇帝と法王クレメンス7世が和解。1530年ボローニャで(ドイツ王)カールを神聖ローマ皇帝の位につけ見返り?にメディチ家がフィレンツェに復帰した。 |
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カンブレーの和約
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| 一連の戦いでイタリア政策の無益を悟ったフランソワ1世は、カール5世との和議に合意した。ルイーズはこの和約に王の代理として臨み、カール5世の代理マルガレーテと和平の調印を行なった。この御婦人同士の代理調印式は1529年のこと。 「貴婦人の和約」の2年後、母后はこの世を去る。政治的にやや疎い息子を支え、ヨーロッパ最強の君主カール5世を外交戦術を使って手こずらせた策略家だった。 |
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クレメンス7世
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在位1523年〜1534年 |
本名ジュリオ・デ・メディチ。いとこの教皇レオ10世の政治顧問ののち1523年教皇。政策は節操無く説得力に乏しかった。カール5世VSフランソワ1世の争いの間でイタリア統一を謀ろうとして両方をいったりきたり。この教皇の優柔さがローマ掠奪の惨劇を拡大した。1527年の皇帝軍のローマ略奪後幽閉され実家メディチ家も追放された。1533年、姪のカトリーヌ・ド・メディシスとフランス皇太子アンリ2世の結婚を司式。ヘンリー8世のアラゴン王女キャサリンとの離婚騒動処理も失敗。英国の教皇庁離反の原因にもなる。ルターの背反に対応する処理も失敗。かえって混迷を深めた。博識ではあったが、身内家族の昇進と自分の死後の評価をやけに気にかける。ただ金遣いは従兄弟のレオ10世程凄くはなかった。ラファエッロ、ミケランジェロ、など優れた芸術家たちや、マキャヴェッリ、コペルニクスらのパトロンだった。いところもあった。 |
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カール5世
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スペイン王カルロス1世(1516年〜1556年)神聖ローマ皇帝(1519年〜1556年)マキシミリアン1世とマリードブルゴーニュの孫。カスティリア王フェリペ1世とスペイン王女ファナの間に生まれる。神聖ローマ皇帝の位を得るためにドイツのフッガー家に借財を負う。同じく神聖ローマ皇帝位を狙っていたフランスのフランソワ1世とその子アンリ2世に一生敵対した。「皇帝の中の皇帝」「中世最後の皇帝」などと言われた。最大の領土を持った。この家系の特徴で顎もついでに大きかった. |
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エレオノール
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フランソワ1世の仇敵である神聖ローマ帝国カール5世の姉。ポルトガルのマヌエル1世の3番目の王妃となり1男1女を出産,1521年に夫マヌエル1世と死別。パヴィーアの戦いの後、カール5世の意向で王妃と死別していたフランソワ1世と再婚した。ハプスブルグ皇女。元ポルトガル皇太子妃。この政略結婚はフランス王家がハプスブルグ家の傘下に入ったことを意味する。何とも悲しみに満ちた肖像で胸を打たれる | |||||||||||||||
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