シャンティイー城の黄昏
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シャンティイーはパリの北40km。パリ北駅から国鉄に乗る25分位。駅はびっくりするくらい周辺も何もない。観光局がぽつんとある。
アクセス 列車 SNCF Chantilly-Gouvieux駅下車 Gare du Nord(長距離線)から30分 Chatelet-les-Halles (RER D線)から45分 オープン時間 3月から10月31日 10時から18時 11月から2月28日 10時30分から12時45分、14時から17時 閉館日 火曜日 公園は毎日開園 |
歴史![]() |
シャンティーイ城は400年の歴史を持つ名城中の名城。シャンティイに人が住みはじめたのはお隣のサンリスと同じく紀元前ガロ・ロマン時代。 5世紀頃からサンリスにクロヴィス以来の王朝がおかれていた。 10世紀から14世紀までシャンティーイ城は サンリスの領主が所有する。この王が現存しない最初の城を建てた. |
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1394年
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| 国王シャルル5世の大法官であったピエールオルグモンは 要塞を造った | |
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1484年
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| ピエールオルジュモンは甥のグイルマールデモンモランシーに遺贈した | |
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アンヌドモンモランシー大元帥
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はルネッサンス時代の要人の1人である。アンヌ・ド・モンモランシー大元帥とその一族が代々フランス王家と婚姻関係結び繁栄。フランソワ1世と共にマリニアンの戦いも出陣。1560 年頃要塞の南の一角に二つ目の城を造るよう建築家に依頼。長方形のこの建物は今もその面影を残している。孫娘がアンリ4世の一族コンデ家のアンリ2世と結婚したことにより1830年までシャンティイは代々コンデ家が継ぐことになる。サン・ドニの戦いで齢75で討ち死。彼の甥が新教徒ユグノーの首領で軍人でもあるコリニー提督である。 |
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アンリ・ド・モンモランシー
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1632年9月、リシュリューの政策に反感を持つラングドックの人々に押され、反リシュリュー勢力のガストン・ドルレアンと共謀し国王に対し謀反を起こすが、瀕死のまま囚われる。 人望篤い公爵の助命嘆願の声にルイ13世はリシュリューの進言さえ無視。加えて全財産の没収と大貴族の称号をも王は剥奪した。公はトウルーズのキャピトル広場で斬首された。その見事な最期は処刑を見守る人々に感銘を与えた。シャンティー城の至宝ミケランジェロの瀕死の奴隷を贖罪のしるしとして枢機卿リシリューに献上した。最後のモンモランシー家の当主だった。 |
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大コンデ公
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大コンデ公がルイ14世に逆らって起きたフロンドの乱のおかげでシャンティイーは没収された。以来王の不興を蒙り老大公は重職から外されていた。1653年ピレネー条約で 再び彼の手に戻った。大コンデ公はシャンティイー城大改造 に着手。のちにヴェルサイユをも手がけるルノートルに造園をを命じた。32万坪の「フランス式庭園」である。ルノートルは大運河を建設のため領地を横切るノネット川に水路を開いた。ダニエルジタールに依頼して壮麗な大階段を造らせた。フランス初の迷路式庭園も造った。堀に映る城の美しさは水の城と讃えられる。マンサールは 鉄柵門に続く2棟の建物を建てた。大コンデ公はシャンティイーを文学者の出会いの場所とし様々な祭りを催した。モリエールはタルチョフをここで上演した。 |
| 1671年4月10日。コンデ大公のもとに、かの“太陽王”ルイ14世の臣下ローザン侯爵から一通の手紙が届いた。『シャンティイー城に3日間国王が訪問することが記されていた。かねてコンデ大公が懇願していた国王のシャンティイ城行幸が実現の運びになった。この3日間の饗応に費やした金額は3兆以上。莫大な借金で賄った。彼はその大饗宴の運命をひとりの料理人に託すのである。彼の名は、フランソワ・ヴァテール。彼はフランス料理人の鏡とよばれる。クリームシャンテリーは彼の創作。生クリームの代わりにメレンゲを使っている。 | |
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プティシャトーの部屋に絢爛豪華な装飾を施したシャンティイー磁器工場や彩色布地工場を造らせ『博物学の部屋』も設けた。公によって創立されたこの窯は、日本の柿右衛門様式、中国文様様式をそっくりそのままコピーすることが主目的。ヨーロッパの他の窯々でもこの窯は他の追随を許さぬ高い骨董的価値を誇っている。だが1760年頃から極端に単純な白地に小さな小花に作風が変化。さすがの陶器好きの私も物足りなく購入断念。お狩り場だった名残かこの城の窯のマークは狩りの角笛 |
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ルイアンリ
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1661年にコンデ侯ルイがブルボン公を継承し、以後、コンデ侯家がブルボン公をも名乗るようになった。 1673年〜1677年ルイ15世の宰相をつとめた。後に失脚、領地シャンティーイに隠棲させられた。 |
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ルイジョゼフ
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| ルイアンリの息子で父親が亡くなったとき僅か4才だった。成人に達すると領地の整備に取り組んだ。1683年にはオランジェリー(オレンジ園)が完成した。1774 年英国中国風庭園の設計に命じ7軒の田舎やから成る“集落”を造った。これは王妃マリアントワネットがプチトリアノンに造らせた村里のモデルとなる。5軒は現存している。王政復古後の1818年にブルボン宮で死去。 | |
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フランス革命の嵐のなかで
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| 1792年バスティーユ襲撃の翌日コンデ一続は亡命。王の親族コンデ公の領地シャンティイーは革命で甚大な被害を被った。城は牢獄として使用されはグランシャトーも完全に解体された。フランス革命が起こると国外へ亡命し、反革命軍(コンデ軍)を組織して革命軍やナポレオン軍と戦う。 | |
| ブルボン公ルイアンリジョゼフの息子アンギアン公は1804年ナポレオン1世の命によりヴァンセンヌの森で銃殺刑に処せられた。このためブルボン公ルイアンリジョゼフには直系の後継者を亡くした。 | |
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オマール公アンリオルレアン
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(1822年〜1897年) |
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1830年大叔父のブルボン公(コンデ家最後の公子)からシャンティイーを遺贈されたとき彼はまだ8才だった。アルジュリア戦で初陣を飾りフランスの若きヒーローとなった。1846年オマール公はお抱え建築家ヂュバンに森のギャラリーの建設を任せた。グランシャトーの再建に取り組んだ。1848年フランス革命のあおりで1848年から1870年まで亡命生活を余儀なくされた。このロンドンを中心に22年間の亡命の間今のシャンティイーを飾る多くの美術品の収集をした。1871年に帰国が許され、シャンティイ城を修復し美術品を収めた。後に国立のコンデ美術館として生まれ変った。 |
| コンデ美術館 | |
1866年から1872年まで妻と2人の息子を亡くしたオマール公はシャンティイを居城というより最初から美術館にするつもりだった。公は遺言書にコレクションを外部に貸与しないこと展示方法を変更しないことを明記。このためコンデ美術館は19世紀の美術館の姿を残している。とにかくミニルーブル美術館と思って間違いない。美術史を彩った名画を至近距離で見た喜びは素晴らしい。![]() |
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| 図書室 | |
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国立図書館に次いでフランス第2位の地位。3万8千冊の蔵書700点の写本を含む。 世界で最も美しい写本『ベリー公のいとも華麗なる時梼書』を購入したときオマール公は若干32才。オマール公の審美眼は天与の才なのだろう。その名のとおり『いとも華麗なる』挿絵の入った祈祷書。この素晴らしい本を作らせたベリー公ジャンはフランス国王ジャン2世の息子で1340年に生まれ。この時代のフランスは百年戦争で人心が荒廃していた。ベリー公はランブール兄弟にこの写本を特注。ベリー公は宝石と絵画を好み、芸術の保護者。売店でこのコピーを買った。息をのむ緻密な美しさで一番人だかりがしていた。イタリアから帰国後フランスに遠近法を紹介したジャンフーケの40点もの作品もある。天井までの書棚ショーケースなど見事な図書館だ。 |
| 大厩舎 | |
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1719年、7代目コンデ公のルイ・アンリ・ド・ブルボンは自らに相応しい厩舎を作るように命じた。コンデ公は人間は死ぬと馬に生まれ変わると信じ込んでいた。「生きた馬の博物館」は世界で最も美しい厩舎で18世紀の建築の傑作。祭りを開催する場所となり内外から多くの賓客が訪れた。内部は縦長で186メートルもあり最も多い時で240頭の馬がいた。犬は500匹。様々な種類の馬やポニーを見ることができる。展示室には馬具や馬の骨格標本また絵で表された人間と馬の歴史などが展示。現代芸術のアーティストによる1,000点以上の絵画・彫刻・デッサンが収められている。馬の博物館があるホールでは調教された芸達者な馬の出演するショーが見られる。余りの城の広大さで歩き疲れたし近づくと馬の匂いでくらくらし外観のみ見学。 ヨーロッパ最大の競走馬の調教センターでは、毎日公開調教ショーがある。ここには、馬が2,500頭飼われ、広さ1,800ha。フランスには250を越える競馬場がある。 |
| シャンティーイ観光協会 | |
| Chateau de Chantilly |