アンヌ.ド.ブルターニュ優しい木靴の女王さま

1477年~1514年)ナントの大公城に生まれる。ブルターニュ公フランソワ2世の娘。歴史上2代のフランス王妃になった女性はいない。エレオーノーラアキーテーヌはフランス王妃次に英国王妃でフランス王妃に2度なった訳ではない。

狙われるブルターニュ公国
大公はアンヌと次女イザボーをもうけたが直系の男子はなかった。必然継承権争いが起る。時のフランス統治者は絶対主義体制確立にぎんぎんに燃えるルイ11世。その意志は娘のアンヌド・ボージューにしっかりインプットされた。フランス王国はブルゴーニュ公国を併合し、残る封建領はブルターニュのみ。今まさにブルターニュ公国は蛇フランスに睨まれた蛙状態。フランソワ2世は早めの娘アンヌの婿選びに奔走。アンヌは8歳にして既に内外に13人の花婿候補を持つ身。けして早熟だった訳ではない。アンヌ12歳の時有力候補のマキシミリアンとは名目上の結婚。1483年ルイ11世が死去。シャルル8世が立ち摂政は姉アンヌ・ド・ボージュー。積極的にブルターニュ併合作戦を展開。遣り手だ。フランソワ2世は16000の兵を率い善戦するもに敗れ遁走。いまやブルターニュの国土はナントのみとなる。フランソワ2世は決死の籠城を続けた。ブルターニュの援軍オルレアン公ルイも捕えられブールジュの牢獄にいた。ところが降伏寸前ブルターニュの民衆が蜂起。その数およそ60000人。フランス軍はやむなく包囲を断念。

ランジェ城でシャルル8世とアンヌ・ドゥ・ブルターニュ結婚

フランソワ2世和平案を提案

長い戦いに終焉に向かわせるべく以下の条件がつけられた。1)はフランス軍がブルターニュ領内に駐屯。2)は公女アンヌの結婚にはフランス王の同意を必要とすること。この項目がアンヌの3度の結婚という錯綜した人生の軌跡を歩ませた。

2代のフランス王妃
シャルル8世
(1470年〜1498年)

ハプスブルグ家のマキシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュと婚約。やがて彼女との婚約を破棄し、アンヌ・ド・ブルターニュ( 父王マキシミリアン1世のかっての妻)と結婚。シャルル8世がブルターニュに侵攻、父王マクシミリアンとアンヌの婚姻を無効とし自身との結婚を強制した。ランジェ城でシャルル8世とアンヌ・ドゥ・ブルターニュの華燭の典が挙行された。シャルル8世はでアンボワーズ城で城門の上部横木に頭をぶつけて死亡。享年28歳。

ルイ12世
(1462年〜1515年)

前王 シャルル8世が男子を残さなかったので王位が転がり込む。ついでにその妃アンヌまでとうとう手に入れた。アンヌは亡き夫の従兄弟に当たるルイ・ドルレアンと再婚することになる。 ナントを初めとした王妃アンヌ。ド。ブルターニュの領地がフランスにとっていかに重要な地域であったかを物語る。ナントという街を歩けばフランスとしてはなにがなんでも彼女との結婚に固執した理由がよくわかる.なかなかの槍てでイタリア領有に固執するも失敗。

王妃の離婚
この結婚を巡って一悶着があった。22年間連れ添ったルイ11世の娘でもあるジャンヌ.ド.フランス(1464年 ~ 1505年) との結婚を無効にするという強引な離婚裁判だった。.ルイ12世はこの結婚はジャンヌの父であるルイ11世によって強制されたものであり最初から「無効」であったことを申し立てた。ジャンヌとは夫婦関係に至ったことはないと主張した。この夫の法廷での発言に彼女は声をあげて泣いたと言われる。独裁者ともいわれたルイ11世の娘であり、容貌も見劣るジャンヌには同情するものも少なかった。ジャンヌ王妃醜女説は乳母の不注意から足を損なったせいもある。
ジャンヌの魂の高貴さにもかかわらず夫は無視し続け時に面と向かって侮辱した。ルイ12世として即位に当たって彼女に結婚解消を強要した。時のローマ教皇アレクサンデル6世を抱き込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらった。使者にたったのが教皇の息子悪名高きチャザーレボルジア。この強者連合にジャンヌの勝ち目は無かった。離婚の承諾と引き換えにベリー女公爵の称号を得た。フランシスコ会修道士の勧めで.ブールジュでl'ordre monastique de l'Annonciadeを創設した。元王妃ジャンヌは以後深い信仰と若かりし頃の夫との思い出に生きた。1950年彼女の死後445年ののち教皇ピオ12世から列聖された。
ブロア城での日々
ルイ12世はアンヌ前王妃との結婚を機にブロア城へ移り住んだ。長女クロードをが誕生。契約通りこのクロードはブルターニュ領を相続することになる。アンヌはすべての運命を娘に託し1514年に死去。長年の多産がたたった のだ。37年の短い生涯。流転の王妃の死はブルターニュの民の涙を誘い彼女の心臓は故郷のナントに運ばれたとか。
アンヌの死後
ルイ12世はイングランドのヘンリー7世の娘メアリー・チューダーと結婚したが、3ヶ月後に病死した。アンヌ王妃の死後ブルターニュ唯一の相続人となったクロード姫は王位を狙う野心家フランソワ・ダングレームと結婚。母アンヌはフランソワ1世の母ルイーズドサボアが大嫌いだった。そしてルイ12世が死去。オルレアン朝が絶えアングレーム朝のフランソワ1世が王位にいた。王妃クロードが1524年に若死。この以後はパリから派遣された知事が地方行政に当る。またフランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗るようになった。これはイギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るのと同じである。
ブルターニュ公国消滅
その領土はフランス領へ吸収されてこの瞬間フランス王国は中世以来のすべての封建領地を吸収合併に成功。ブルターニュ公国はアンヌの思いは届かず消滅.ブルターニュ地方の独立心の象徴的存在。亡き父王の意志を継ぎグルターニュの独自性を守ろと必死に生き抜いた薄命の王妃。その王妃の遺徳にブルターニュの民衆は惹き付けられた。ブルターニュ人は、彼女が村の農婦の差し出した木靴を履いてブルターニュ各地を回ったために「優しい木靴の女王」と慕う。
時祷書
アンヌ王妃はまた後世に美しい宝を遺した。ジャンブルディション(ルイ11世の時代のトウール出身の宮廷画家)アンヌドブルターニュのために時祷書を作成した。フーケのベリー公のいとも豪華な時祷書と並ぶ美しい時祷書。聖女アンナと聖ウルスラと共にアンヌドブルターニュの肖像が描かれている。豊かな教養と慎ましく気品に溢れた姿が読み取れる。ルイ12世とは恋愛であったと云われているが優れた心映えで多くの人から敬慕された女性だったに違いない.
王妃ゆかりの城
ブルターニュ大公城
ブルターニュ公国の姫としてアンヌはこの城で生まれた。この城は1598年にもう一度フランス史の表舞台に登場。アンリ4世は「ナントの勅令」をここで公布した。アンリ4世は36年間続いたユグノー戦争に終止符を打つべく自らプロテスタントからカトリックに改宗した。このナントで信教の自由を認める勅令を発した。深い堀に囲まれ、6つの棟によって防御されているグルターニュ大公城。アンリ4世はこのに城に初めて足を踏み入れた時、その壮大さとブルターニュ大公の治世の見事さに深い感銘を受けた。
ブロア城
13世紀ブロワ伯爵夫人により城の基礎が築かれた。
15世紀末〜16世紀初頭、ルイ12世によりゴシック様式に改築。王妃アンヌはこの城で37歳の短い生涯を終えた。16世紀にアンリ2世、更にカテリーナ・デ・メディチが所有。宗教戦争の際には、フランス王アンリ3世によるギーズ公暗殺の舞台となった。16世紀末、アンリ4世が即位を機に政治の中心はロワールからパリに移った。17世紀にオルレアン公が古典様式に改築。現在、ブロワ市が所有し管理している。いろんな時代の様式が入り交じりちょっとごたごたした城。
フランスの異国、ブルターニュ人は、「ブルトン語」と呼ばれ彼ら独自の言語文化を持っている。パリはモンパルナス駅からTGVで3時間。途中瀟洒な城が点在する「フランスの庭」ロワール地方を走り抜け西の果てブルターニュの地。ブルターニュは先史時代にメンヒルやドルメンなど巨石文化がはぐくまれた。5世紀にイギリス(ブリタニア)から移住したケルト人が開拓.この地方も「ブリタニア」と呼ばれ、1532年の合併条約でフランスに組み入れられるまで独立した国(ブルターニュ公国)として栄えていた。勇猛な彼らは独自の文化を大切に育て、後にブルターニュ公国を築く。サンマロは海賊の作った街とか。中世にフランス軍による侵攻を何度も受け、最後までフランス王国に統合されるのを拒み続けた。后妃アンヌ・ド・ブルターニュの娘とフランス王フランソワ1世との婚姻により、ブルターニュはとうとうフランスに組み込まれた。
参照
クロ二ックス『世界全史』
ロワール渓谷の歴代フランス王
王妃の離婚 佐藤賢一
貴婦人の館

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