若きフランス士官革命の申し子
| 1784年 | |
| フランス北部のブリエンヌ兵学校へ入学。さらに1784年パリの士官学校へ入学。この間、数学に抜群の成績を納めるが卒業試験の成績は58人中42位でパッとしなかった。ただ雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝した。 1785年11月フランス南東部のウ゛ァランスの砲兵連帯に配属された。のちの輝かしい軍歴のスタートを切った。 |
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| 1793年 | |
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フラ ンス革命軍砲兵士官として反革命陣営の拠 点であったトゥー ロン港奪回で名を挙げた。非軍人出身者が多い革命軍の上級将校に悩まされながらもボナパルト少尉は早朝の雨天決行総攻撃をかけた。ナポレオン自身も負傷する激戦。ついにトゥーロンを陥落させたナポレオンは三階級特進し陸軍少将となる。
ボナパルト少将であったがテルミドールのクーデターが起こり、以前からロベスピエール派と見られていたため、権限を剥奪され投獄される羽目に陥った。 |
| 1795年 | |
| 国民公会総裁バラスに荷担してパリで王党派を中心にしたヴァン デミエールのクーデターで王党派反乱を鎮圧し 国内軍司令官となる。なんと首都パリのサンロッシュ教会に大砲を向けた荒療治でバラスを救った。 | |
| 1796年 | |
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ナポレオン語録
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『この総裁政府の時代に私はバラスから厚い信頼を寄せられた』 |
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総裁政府と500人会議が成立しボナパルトはバラスから国内軍最高司令官の地位をこの年、サロンの花として人気絶大だったジョセフィーンと結婚。実は彼女はバラスの愛人でもあった。 ナポレオンは結婚式の2日後にイタリア戦役に出発イタリア遠征によりオースト リア軍に連戦連勝。ナポレオンの栄光の出発点となったイタリア遠征中、代表的な戦闘といわれる「アルコレの戦い」。イタリア諸侯国より多くの財宝を略奪す る。このとき有名なアルプス越えはナポレオンは白馬にまたがって先陣をきっているが間違い。彼は兵の後を驢馬に跨って登ったのだ。このイタリア戦役の戦利品はナポレオンの一族をたっぷりと潤した。 |
| 1798年 | |
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エジプトに遠征するが、総裁政府の動揺を見て単独 帰国。『諸君4000年の歴史が君たちを見ている』と兵士を鼓舞するが兵士を置いてきぼりにする。ナポレオン軍が持ち帰ったロゼッタストーンを語学の天才シャンポリオンが解析して 古代エジプト文字が解明されエジプト学の緒を開いた。英国海軍の名将・ネルソン提督。 彼の率いる英国艦隊がアブキール湾の戦いでフランス艦隊を撃滅、 地中海の制海権は英国のものとなる。 |
| 1799年 | |
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当時の総裁政府は無能なうえに汚職がはびこり
だらしがないし人気も無い。フランスの政情は不安定。すでに人気のあったナポレオンは軍を率いてクーデターを決行、 臨時統領、さらにそのあと第一統領に就任。 政権を握ったナポレオンは、このあと驚異的なパワーで新時代の建設に没頭。行政組織を再建し警察制度を整備し国立銀行を設立。近代化を進める。 有名な『ナポレオン法典』もこのときに編纂された。 本当にこの時期のナポレオンはフランス革命後のスーパーヒ-ロー。 |
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ナポレオン語録
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決行の日を決め人々の先頭に立って歩くだけで私は権力を手に入れた。 |
| 1799年 | |
| ブリュメール18日のクーデ ター | 11月9日(ブリュメール18日)、クーデター派は反対派を排 除するため議会をパリ郊外に移し、ナポレオンにパリの軍隊の司令権を与え、ク ーデター反対の総裁を辞職させ、あるいは軟禁した。しかし、翌日の議会にはク ーデターに反対する議員も集まってきて、クーデター計画を非難したので、クー デターは失敗に終わりそうになった。その時、ナポレオンの弟のリュシアンが、 軍隊を指揮して反対派を鎮圧し、総裁政府にかわって3人の臨時執政からなる執 政政府が樹立された。その3人とはシエース、その同僚のデュコ、およびナポレ オンであった。 |
イタリア戦役![]() |
1800年春。敵国オーストリアがイタリアを奪い大軍をスイスに進めたのでナポレオンは2回目のイタリア戦役に出陣。 このイタリア戦役では、ナポレオンは周囲の意表をついて ジュネーブからアルプス山脈の大サン・ベルナール峠を突破するルートを選択。深い雪で覆われたアルプスを突破してイタリア平原に突入。瞬く間にミラノを奪取して全欧州を驚嘆させた。 1801年オーストリアと講和が成立。 そのあとイギリスとも講和が成立。 フランスに実に10年ぶりの平和が戻ってきた。 |
| 政教条約コンコルダ締結 | ローマ教皇ピウス7世との間に締結された。これにより革命で荒れたカトリックの回復と宗教者の地位の復帰も計った。またプロテスタントやユダヤ教の自由も認めた。 |
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ナポレオン語録
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もしユダヤ民族を支配するなら、私は彼らの神を祭る神殿を建てるだろう。 |
| この時期、ナポレオンとジョセフィーンの夫婦関係も安定期に入る。妻のジョセフィーンもファースト・レディーとしてナポレオンを背後から支えた。相変わらずの浪費家だったが素行は収まり貞淑な妻となっていった。ナポレオンのコルシカ気質の一族とは折り合いが悪かった。 ナポレオン政権には外相タレイラン、警視総監フーシェ(秘密警察を発明)一筋縄でいかぬ策士達揃い。社交性抜群のジョセフィーンが間を取り持った。 |
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