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| 儚き王朝 | 「ナポレオンには家族がないほうがましだった」スタンダール | ||||||
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ナポレオンの兄弟は弟一人以外はみんな出来が悪かった。妹達は美人で策士揃いだった。ナポレオン帝国の早めの崩壊はこの兄弟達も原因。だがナポレオンは親族重用ネポティズムを実践した。ナポレオンが皇帝になり大陸諸国を征服するに伴って,兄弟はナポリ王・スペイン王・オランダ王・ヴェストファーレン王と出世。ナポレオンの没落とともにこの俄造りの王朝は消滅した。息子のナポレオン2世は母とともに祖父の皇帝フランツ2世の下で育てられた病気のため早逝した。帝政を再興したのはナポレオンの甥にあたるナポレオン3世(在位1852〜70).フランスに経済的繁栄をもたらしパリの大改造にも着手したが普仏戦争に負け退位。その息子は1879年に戦死し第三帝政樹立は未完だった。 | ||||||
| 父カルロ | (1746年〜1785年) | ||||||
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ポナポルド家の祖先はイタリア系。16世紀にジェノヴァからコルシカに移住した。ナポレオンの父シャルルは,ピサで法律を学び,アジャクシオで弁護士となり,パオリの独立運動に参加した。のちにフランスの支配を承認して貴族の称号を与えられた。息子たちはフランス本土で教育を受ける特典を与えられた、大革命中一家はコルシカからフランスへ移任した。 |
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| 母レティツア | (1749年?~1836年) | ||||||
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若い頃は天使のように美しいと言われた。コルシカでは女闘士として戦った芯の強さがある。リュシアンとナポレオンの確執に心を痛めた。皇帝の母となってもつましい生活を守り一族を束ねた。ナポレオンの死の後も最愛の孫ウィーン宮廷のライヒシュタット公の死のしらせの後も生きた。ローマでまもなくひっそりと亡くなった。ルイの息子がナポレオン3世となり王室墓所に皇太后レティツアの亡骸を移した。レティチアはナポレオンと違い子供たちの幸福だけを願い名声にはこだわらなかった。 | ||||||
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ジョゼフ
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(1768年〜1844年) | ||||||
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ナポレオンの兄。ナポレオンの覇権成就に協力し、ナポレオン帝政の下で、ナポリ王ついでスペイン王となる。ナポレオンとジョゼフィーヌの仲を引き裂くためにいろいろ画策する。穏やかで誠実な人物。ナポレオンの男兄弟の中では一番ナポレオンと親しかったようである。 | ||||||
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ルイ
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(1778年〜1846年) | ||||||
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オランダ王となり、ジョゼフィーヌとの子供であるオルタンス・ボーアルネと結婚。しかし、ナポレオンと妻オルタンスの仲を疑ったルイは別居。1810年には王位を去ると共に離婚。詩人肌で国民に気を遣う彼は、暴君化する兄についていけなくなったとも言われている。その子シャルル・ルイはナポレオン3世となり、フランス皇帝になった。ナポレオンの一族の端正な容貌を彼だけは継がなかった。 |
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リュシアン
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(1775年〜1840年) | ||||||
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ナポレオンより6歳年下の優秀な弟。 ブリュメールのクーデターは、彼の冷静な行動がなかったら頓挫していた。しかし、ナポレオンにその能力と野心を疎まれ執政時代には内務大臣となったものの兄とは衝突しがちでその地位は剥奪された。1800年にはマドリッドの大使となったがここでも兄と衝突。ナポレオン帝国の安泰のため、エトルリア王の未亡人との結婚を兄に説得されたが、別の女性と結婚した。兄との亀裂は決定的となる。イタリア、イギリスと住まいを変え、アメリカに行く途中、英国船に拉致される。1814年にローマに戻り、百日天下の間にナポレオンと和解。兄を助けるために再びフランスに戻る。王政復古の際、イタリアに帰りローマで亡くなる。 |
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ジュローム
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(1784年〜1860年) | ||||||
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甘やかされて育ったのか、お金使いが荒くお人よしで軽薄。はじめアメリカ人女性エリザベス・パターソンと結婚。1805年ナポレオンにその結婚を無効とされ、泣く泣くカトリーヌ・ド・ヴェルテムベルク王女と結婚し、ウェストファーレン王になる。 | ||||||
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エリザ
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(1777年〜1820年) | ||||||
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1805年にリュッカおよびピオンビーノ大公妃となった。トリエステではパガニーニは彼女の愛人だったらしい。 | ||||||
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ポーリーヌ
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(1780年〜1825年) | ||||||
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ナポレオンの妹達の中では一番の美人で、ナポレオンにも最も可愛がられていた妹。ボルゲーゼ侯爵と結婚した。庭内に自分の裸像を彫らせ飾ってナポレオンも渋い顔をした。ナポレオンの兄弟姉妹の中では、ただ一人だけナポレオンに会いにエルバ島に行った妹。恋多き女性だったようである。ナポレオンも彼女の奔放さに手を焼いた。 |
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カロリーヌ
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(1782年〜1839年) | ||||||
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ナポレオンの部下で当代一の伊達男ミュラと結婚。兄ナポレオンの性格と夫ミュラの単細胞振りも熟知していた。抑制無き野望と征服欲がその運命にどれほど危険なものか知っていた。 彼女の願いは安定した個人的幸福で,そのため 絶頂から奈落へのきりもみ落下は避けられた。また夫ミュラが兄ジョゼフについでナポリ王になった折、ポンペイの発掘に援助を惜しまなかった。彼女は数々の男どもを利用して自分の望みを成就した。その男たちの証言
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| 義理の子供 | ジョゼフィーヌの連れ子 | ||||||
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ウジェーヌ・
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ド・ボアルネ(1781年〜1824年) | ||||||
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軍人に憧れ、エジプト遠征ではナポレオンの副官として参戦。その後も有能な軍人として成長し、ナポレオンも実の息子のようにかわいがった。ナポレオンの兄弟よりナポレオンに対して忠誠を誓い、最後までナポレオンを裏切らなかった.猜疑心にかられたナポレオンはウジェーヌすらも疑うようになる。イタリア副王後は、バイエルン王マキシミリアン1世の娘のアウグスタ王女と結婚した。その娘のジョゼフィーヌは後のスウェーデン王オスカル1世の王妃となった。 |
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オルタンス
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ド・ボアルネ(1783年〜1836年) | ||||||
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ウジェーヌの妹でナポレオンの弟のルイ・ボナパルトと結婚し、後にオランダ王妃となった。ナポレオン3世の母。初めは母の再婚相手を不恰好な軍人として嫌っていたが、そのうちにナポレオンの兄弟姉妹達とは違って最後まで兄と共に義父に忠実で尽くした。落魄した義父ナポレオンにダイアのネックレスを差し出したが糸が切れダイヤが飛び散ったといわれる。夫ルイとの不仲でしばしば悩む。結局鬱病のルイとは離婚した。母のジョゼフィーヌに続きボナポルト家と離縁。姑レティツアはボーアルネ家の女2人と縁が切れたと喜んだ。タレーランの息子のシャルル・ド・フラオと同棲までしていた。二人の間に出来た子が成長しナポレオン3世の外務大臣を勤めた。 |
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| ナポレオン語録 | |||||||
| 「私はジョゼフをスペイン王にするために、数十万の人命を犠牲にしたが、私の王朝の安泰のためには兄が必要であると考えたのは、私の過失のひとつだった」 |
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