ナポレオン法典 1804年3月21日施行
ナポレオン語録
後世私が評価されるとしたら多くの戦勝でなくこの法典によるのだろう』
ナポレオンは数奇に満ちた自分の生涯をこの一言で集約した。「ナポレオン法典」はナポレオンの治世における偉大な成果。フランス革命の成果を成文化した。多くの血を流した末に勝ち取った人間の自由や基本的な権利。フランス革命の申し子といわれるナポレオンは革命の理想をこの法典で完成した。彼の尽力でで制定されたナポレオン法典は今なお適用世界中でその息の かかった法律が使われている。
ナポレオンがセントヘレナ島の子供に与えたナポレオン愛蔵のナポレオン法典 ナポレオンはエジプト遠征のときただ1人でピラミドで夜を過ごしている。このときナポレオンは自分がこの世に遣わされた使命を闇のなかのファラオとの対話見出したのではなかろうか?何故弱冠30才足らずの若者の身でエジプト遠征に200名もの考古学者などを引率することを思いついたのか?自分の王者へ道を予知確信していたに違いない。
法典の精神
「家族という小さい祖国を通して人は大きな祖国に連なる。よき国民を形作るものは良き父、良き息子である。自然の正しい愛情のすべてを確認し保護するのは、市民諸制度に、本質的に属している。」家族の尊重を高らかに謳う。「人間は願望を持って生まれてくる。それは食べたり着たりすることが出来なければならない。ゆえに人は自己の生存とその維持とに必要なものに対する権利を有する。それば所有権の起源である。だから所有権自体は自然の直接な制度である。」1789年のフランス革命の「人権宣言」において財産所有の神聖不可侵をうたつた。それ故に、ナポレオン法典は「所有権の法典」とさえいわれ資本主義経済の道を歩むようになる。
書斎のナポレオン

ダヴィッド作

「ダヴィッド、君は私を理解したようだ。私は夜は国民の幸福のために、そして昼は彼らの 栄光のための働いているのだ。」とナポレオン。ナポレオンの右手にはナポレオン法典が描かれている。
法典の編纂

4名から委員会が作られ、法典作成に着手す。ナポレオンは精力的に協力し、1804年3月21日この法典は「フランス人の民法典」(Code civil des Francais)として施行。1807年この法典は「ナポ レオン法典」(Code N apoleon)という公式名称のもとに改めて公布。
法典の内容
ナポレオン法典は、その優れた内容と、フランス帝国の政治力によって世界的に伝播。
そして日本1870年(明治3年)、江藤新平をして民法典を翻訳し、制定しようとしその後ボアソナードを招いてフランス民法 典に習って民放草案を起草し1890年(明治23年)に公布。これは「旧民法」と呼ばれている。旧民法は1896年(明治26年)1月1日より施行の予定が、日本の家族制度と合わないと言う論争が勃発し結局施行されず。結局日本ではド イツ民法を参考にして1901年(明治31年)に民法が施行された。

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