ナポレオン戦争
| 剣の上の玉座 | 『剣の上に人は長く座ることはできません』宰相タレイランの諫言も軍人ナポレオンの耳には届かなかった。外相から侍従長官となったタレーランは国際協調の考えのないナポレオンに見切りをつけナポレオン帝政を崩壊を画策する。 | ||||||||||
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ナポレオン戦争の意味
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大陸諸国との革命戦争の第2幕であると共にヨーロッパの覇権を巡る英国との死闘の山場でもあった。 | ||||||||||
| 彼が企んだ侵略戦争に多くのフ ランス国民が軍役に服した。ナポレオンが戦争を続行したのはフランス 産業の振興、市場拡大を目指してけして世界平和の為ではない。彼は生涯で60回の戦闘をする。ナポレオン戦争のフランス軍の死者は60万〜100万といわれる。 | |||||||||||
| ナイルの戦い | |||||||||||
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英国繁栄の基礎インドへの道を断つため1798年エジプトに遠征するが悪戦苦闘。特にアブキール湾の海戦では名将ネルソンのため壊滅的被害を受けフランス艦隊は全滅する。本国の総裁政府の動揺を見てこっそり 帰国。兵士を鼓舞しながらも兵士を置いてきぼりにする。残ったクレベール将軍(途中で暗殺される)と2万の兵は以後降伏するまでの丸2年を戦い続けるはめになる。ロゼッタストーンの発見はエジプト学の緒を開いた。 |
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ナポレオン語録
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『ピラミッドの上から4000年の歴史が君たちを見ている』 | ||||||||||
| マレンゴの戦い |
1800年6月14日 | ||||||||||
| 北イタリアに進出し、マレンゴ村でメラス将軍率いるオーストリア軍と激突.オーストリア軍はフランス軍を圧倒しほとんど勝利は確実だった。軍神ナポレオンの前にまさかの敗退。このとき鶏のマレンゴ風という名采が生まれた。オペラ『トスカ』もまさしくこの日から物語をはじめる。 | |||||||||||
| トラファルガー海戦 | 1805年10月21日 | ||||||||||
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ナポレオンが皇帝になってもイギリス、ロシア、オーストリアとの敵対関係は続く。20万の大軍をもって英国侵攻を開始。
ネルソンの最期の言葉「神に感謝しよう。私は私の任務を果たした」 |
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| アウステルリッツの戦い |
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1805年12月2日1805年12月2日、チェコのアウステルリッツで、率いる仏軍と率いるオーストリア・ロシアの間で行われた会戦。 3国の皇帝が一堂に会したため三帝会戦ともいわれる。
この戦いの結果第3次対仏大同盟は終了し神聖ローマ帝国は解体。ライン同盟がつくられた。 |
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| プロイセン戦役 | |||||||||||
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連邦諸国はナポレオンの息がかかった人間が配され、フランス防衛の外壁の意味があった。プロイセン王はフランスとテルジット条約を結び国土の半分を失った |
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| ロシア遠征 | |||||||||||
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ナポレオン語録
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フランスの平和のためにはどうしてもロシアという大国を制する必要があるのだ。 | ||||||||||
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ボロディノの戦い
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イギリスとの通商を禁止する大陸封鎖に従わないロシアに、ナポレオンは60万の軍をもって遠征する。1812年9月7日クトゥーゾフは、モスクワの西方約90kmのボロディノで初めて激戦を交えた。ナポレオンの率いる13万の大陸軍とクトゥーゾフの率いるロシア軍が激突したが勝敗は決せず、双方とも4万の死者を出し、両軍とも勝ったと称した。 | ||||||||||
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しかしロシア は当時のヨーロッパにおける最も反動的な国家だった。ナポレオン側はロシア軍に決定的な打撃をあたえられないままモスクワに入城。そして夜になってロシア軍はなんと首都に放火、モスクワは4日間にわたって燃え続け、町の4分の3が焼けた。モスクワは焦土と化す。その後、一か月余、ナポレオン軍はなすすべもなくモスクワに滞在する。しかし、迫りくる飢えと"冬将軍"に追われついにモスクワから退却する。今や後退に後退を続けるナポレオン軍。クトゥーゾフ将軍のロシア軍が襲いかかる。飢えと寒さが敗残軍の息の根をとめた。生きてパリに帰還した兵はわずか2万ないし3万といわれている。特に悲惨を極めたのは氷塊の流れる橋の無いベルジナ河の通行である。ヨーロッパ最強を謳われた大陸軍の崩壊の瞬間だった。 | ||||||||||
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ナポレオン語録
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崇高から笑止への距離は一歩だ |
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| イベリア半島戦争 | 1808年~1814年 | ||||||||||
| スペインの険しい地形・気候やゲリラ戦に苦戦していたフランス軍が、8月に上陸したイギリス軍に撃破されてしまう。予想外の苦戦にナポレオンは自らスペイン遠征へと向かい首都を制圧し、イギリス軍をイベリア半島からたたき出すことに成功.だがスペインはナポレオンの重大な負担となった。 | |||||||||||
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ナポレオン語録
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私は長い間スペイン支配を夢見てきた。スペイン戦争の失敗はフランスが不幸の道を歩む第一歩となった。 | ||||||||||
| ヴィットーリアの戦い | 1813年6月21日 | ||||||||||
| ライプツィヒの戦い諸国民戦争 | 1813年10月16日~19日 | ||||||||||
| ロシア・プロイセン・オーストリアの同盟軍33万とフランス軍15万が激突した。フランス側にあったザクセン軍の突然の寝返りのために同盟軍がナポレオン軍に大勝し、ナポレオンはパリに逃げ帰った。同盟軍はライン川を越え1814年3月31日パリに入城。、ドイツ西部のラこの時、ナポレオン麾下の元帥も戦死、4万以上の死傷者を出し連合軍も6万以上の死傷者を出した。この会戦の結果、ライン連邦は崩壊。ナポレオンのドイツ支配が終わった。皮肉にもこの連合軍の総司令官は、元フランス皇帝軍元帥ベルナドット将軍だった。 |
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| 終わりの始まり | 1814年 | ||||||||||
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| エルバ島のナポレオン | |||||||||||
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ナポレオンは、同盟国側によってエルバ島(ナポレオンが生まれたコルシカ島の東48kmの所にある島)に流されたその時同盟国側が示した条件は「ナポレオンはエルバ島に流され、年額補助200万フランを受け取る。彼は皇帝の称号を保持し、400人の近衛兵を保有する」というゆるやかな条件であった。 |
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| 100日天下
(1815.3.20〜1815.6.22) |
ナポレオンは、ウィーン会議が紛糾していること、またルイ18世の反動政治に対する国民の不満が高まっているのをみて、1815年2月26日にひそかにエルバ島を脱出し、1000の兵とともに3月1日にカンヌに上陸。ほとんど抵抗を受けることなく、「皇帝万歳」の声に迎えられてグルノーブル・リヨンを経てパリに進んだ。ルイ18世が派遣した討伐軍もネイ元帥(1769〜1815、特にロシア遠征の退却戦で功をたてた名将)をはじめ次々とナポレオンに従った。 3月20日、ナポレオンはパリに入り、再び皇帝位に就いた。以後再び退位するまでは、ナポレオンの「百日天下」と呼ばれている。 |
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当時のパリの新聞の見出しは
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| 第7回対仏大同盟結成 | 1815年 | ||||||||||
| ナポレオンのエルバ脱出の報がウィーンに伝えられると、列強は急速に妥協に向かった。6月にウィーン議定書に調印し、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの間で対仏大同盟が結成された。 | |||||||||||
| リニーの戦い | 1815年6月15日 | ||||||||||
| ワーテルローの戦い | 1815年6月18日 | ||||||||||
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ナポレオン軍7.4万の率いるイギリス軍6.7万が、ベルギーのワーテルローで激突した。午前11時半頃戦いの火ぶたが切られ、フランス軍は攻撃をくり返したが、イギリス軍はよく守りぬき、午後4時半頃、前日フランス軍に敗れて退却していたプロイセン軍が来援してイギリスと合流すると、イギリス・プロイセン連合軍が優勢となり、午後8時頃フランス軍の突撃が失敗に終わり、フランス軍の敗北は決定的となった。フランス軍の戦死者4万以上、連合軍の戦死者は2.2万であった。ナポレオン戦争に終止符を打った男としてその名を知られるウェリントン(1769年〜1852年)は後に首相となった。ナポレオンの画期的な戦術は約20年間で敵方に研究され尽くされてもいた。 | ||||||||||
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ナポレオン語録
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私の計画は生涯に亘って英国艦隊に邪魔された。 | ||||||||||
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ナポレオンは、6月21日パリに逃げ帰り翌6月22日に退位した。7月に入って連合軍がパリに入城し、ルイ18世が再び即位した。 | ||||||||||