ナポレオンの愛した女性たち

ジョゼフィーヌ 1763年~1814年
JosPhine de Beauharnais。フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。従姉妹に海賊に攫われたが美貌故にスルタンに献上され母后になったエイメがいる。1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚.ウジェーヌ(1781年〜1824年)オルタンス(1783年〜1837年)をなしたが1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、フランス革命中のギロチンで処刑された。彼女もカルム監獄で処刑を待ちながら危機一発 ロベスピエールの処刑により8月3日に釈放された。
ナポレオン語録
ナポレオンはジョセフィーヌとの出会いのいきさつを 『ウジェーヌは、父親の剣を残しておきたいと私に頼みにきた。こうして、私 はジョゼフィーヌと知り合ったのだ。』と語る。
反乱に懲りた公安委員会はパリ市民に武器所有禁止を違反者は死刑にする発令。国民衛兵は武装解除され、パリは完全に軍の制圧下に置かれた。
将軍の妻へ
ジョセフィーヌは総裁政府のバラスの愛人となって二人で組んで利権の斡旋をした.当時バラスはリュクサンブール宮殿に住み王侯風に暮らしていた。愛人ジャセフィーヌも臨時のファーストレディとして社交界を遊泳した。総裁バラスはすっかり飽きていた女をコルシカ育ちのナポレオンの一途な恋を 利用し 体よく縁を切る。(ボナパルトは派手なボーアルネ元子爵未 亡人が資産家であると思い込んでいた。現実を知った時は、時既に遅く1796年3月9日結婚した。ジョセフィーヌは浮草のような愛人稼業に疲れ高位の軍人の妻という安定した立場に惹かれ結婚したがバラスとは続いていた。
ヴァンデミエールの将軍 Vendemiaire

ナポレオンの指揮する砲兵は、抵抗する王党派を粉砕し暴徒は撃退された。国民公会はナポレオンを国内軍の総司令官に任命。以後パリは国内軍指令官の制圧下に置かれた。ヴァンデミエールでの唯一の勝利者は26歳の将軍ナポレオン。この成功で「ヴァンデミエールの将軍」と称えられ一躍国民的ヒーローとなる。
バラスvicomte de Barras
1755年〜1829年
プロヴァンスの旧貴族の家に生まれた。16歳で軍隊に入り革命前はインド戦役に従事。
パリに出てジャコバン・クラブに加わり1792年には国民公会議員に選出された。1793年イタリア軍に参加しツーロン攻囲で残酷さを発揮。1794年、反ロベスピエールの勢力に加わり、テルミドールの反動では公会軍の司令官となりロベスピエールを打った。
ヴァンデミエールの反乱では王党派をナポレオンに命じて鎮圧した。翌年総裁政府の樹立で五人の総裁(全員ルイ16世の死刑に賛成票を投じた)の一人となる。
武力をバックに巧みな均衡政策をとった。愛人であったジョゼフィーヌをナポレオンと結婚させ、テルミドールの同志のタリアンの妻テレジアを奪って自分のものにした。洗練された容姿に極めて悪辣な心情を包んでいた。ナポレオンを高く評価、イタリア遠征軍司令官に抜てきしたのも彼。そのナポレオンによるブリュメール十八日のクーデターで失脚。その後モンペリエで隠遁し亡命生活を送ったが執拗にナポレオン夫妻を攻撃し続けた。
不実な妻ジョセフィーヌ

結婚後も彼女の身持ちは収まらず次々と愛人を作り浮気を繰り返した。ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。エジプト遠征中の美男の騎兵大尉シャルルとの浮気にはさすがのナポレオンも離婚を考えた。しかし彼女の連れ子の涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は断念。ジョゼフィーヌはこの頃から徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていく。反対にナポレオンの愛情は冷めていった。
フランス皇后へ
1804年ナポレオン皇帝誕生。
総裁バラスの回想
後にこの卑しい男は回想録を出しフランス皇后となった昔の愛人を思いっきりこきおろす。『乳房は萎びている。歯が悪く口臭もある。娼婦のような暮らしをしてた。困窮してた。etc. 』
パリ郊外のマルメゾン に二人の居を構えた。マルメゾンはRUEIL(ルエユ)と呼ばれ、パリの西約10kmセーヌ川のほとりにある。贅沢三昧の生活が始める。皇后は口紅代だけで年に250万円も使う。手袋は約100対。

Le chateau Malmaison

離婚

ポーランドの愛人との間に息子が生まれた事などもあり1809年ジョセフィーヌを離縁する。ナポレオンは自らが武力で築いた帝国を継ぐ嫡子を切望した。もはや40代の皇后には叶わぬ願いだった。結婚生活9年目だった。それ以降、彼女はマルメゾン宮殿で余生を送った。死ぬまで皇帝の妻として「皇后」の称号を保持し続けていた。

←離婚を宣告され失神するジョセフイーヌ
演技だった。

ジョセフィーヌ最後の日々

汚辱に満ちた前半生だったがジョセフィーヌはマルメゾンでの淋しい日々に磨かれ 静かな余生を送る 。真の英知なるものが彼女に生まれる。彼女は植物を愛し当時 流行していた園芸、バラの育種を熱心に研 究し原種から2万種類あまりを多彩へと導いた。まさに現代の薔薇の女王。画家ルドウテに細密な薔薇の絵を描かせ記録した。1814年 5月 29 日ジョセフィーヌは最愛の息子ウジェーヌに看取られマルメゾンでその数奇な人生の幕を閉じる。マルメゾンの中心にあるサ ンピエール・サンポール教会に葬られる

Souvenir de la Malmaison
オールドローズ のブルボン系の代表的な品種。八重クオーター咲きの薔薇。淡いピンクから白へと褪色。 強い芳香性がある。

ナポレオン語録
『ジョセフィーヌは嘘つきでだらしなかった。だがなんともいえず好きだった』
ポーランドの妻 1786年〜1817年
マリアが十六歳になった時2度も妻と死別していたヴァレフスキ伯爵がマリアに求婚。実家の借金を肩代わりする条件でマリアの母のエヴァは 二人を結婚させた。新郎はこの時マリアより52歳も年上。この不幸な結婚からマリアは信仰と愛国心に生きた。
転機1806年、12月18日
ワルシャワ。
マリア・ヴァレフスカ
ナポレオンとフランス軍は、ポーランドの救い主として熱狂的な歓迎を受けた。 1807年1月7日、外務大臣タレイラン主催の舞踏会でナポレオンは美しい伯爵夫人マリアに 一目ぼれした。祖国ポーランドのためついに貞淑なマリアだったがナポレオンの愛人になった。人々から「天使のようだ」と例えられたマリアをナポレオンは「ポーランドの妻」と呼んだ。マリアが妊娠してもジョゼフィーヌと離婚してまでナポレオンは王侯クラスとの結婚を企てた。マリアは彼の計画を知りポーランドに身を引いた。1810年4月2日ナポレオンはハプスブルグ皇女マリー・ルイーズと結婚。この頃夫と離婚し自由の身となってもマリアは誰とも再婚せずナポレオンとの愛だけに生きた。こんなマリアにナポレオンの一家は好意的で彼女をナポリに招き一族と共に過ごしたりする。1813年の春にはジョゼフィーヌにも息子のアレクサンドルと共にマルメゾン宮殿に招待された。ジョゼフィーヌにもマリアに好意を抱いた。1814年4月6日に皇帝を退位したナポレオンを案じたマリアは、4月13日ただちにフォンテーヌブロー宮殿に駆けつけ た。ナポレオンは部屋で服毒自殺を計り彼女は会わずにそうと帰国した。皇后と息子ローマ王が配流先に同行しないことを知らされ絶望のあまりナポレオンは服毒自殺を計ったのだ。マリアは1814年8月31日にはエルバ島のナポレオンを訪ねて行った。遠路はるばる訪ねて来たマリア母子を残酷にもナポレオンは僅か3日で追い返す。マリールイ−ズ皇后に気兼ねしてのこと。
永遠の別れ
 
1815年のこと。今や全てを失ったナポレオンと最後の別れをするためマリアはアレクサンドルを連れてマルメゾン宮殿を訪れた。 マリアは一時間ほどナポレオンと過ごしこの世で最後の別れをした。マリアはナポレオンの計らいで彼の従兄弟ドルナノ伯と1817年に結婚。 ナポレオンは流刑地でジョゼフィーヌとマリアの肖像画を飾っていた。 1816年ロドルフを出産した。産後 腎機能の悪化と心身衰弱から立ち直れず死去。31歳の若さだった。ナポレオンの没落と彼との別れによる心痛が彼女の生きようとする気力も奪った。
ハプスブルグ皇女 1791年〜1847年

マリールイーズ 

神聖ローマ皇帝フランツ2世の長女.1810年メッテルニヒの画策によりハプスブルク家のためナポレオンと結婚。このときマリーは19歳。幼い頃のマリーはオーストリア軍を脅かしていたナポレオンに“コルシカの食人鬼”と呼んで恐れていた。人形の一つに《ボナパルト》と命名し叩いていた。結婚後コルシカの食人鬼が意外に優しいので驚いた。翌1811年にはローマ王と名付けられた男子を出産。やがて新米の皇帝はルイ16世をなんと『僕の伯父さん』と呼んで周囲の失笑をかった。皇女を迎えてからのナポレオンはまさに軍神と讃えられた軍事的な冴えが消え 判断ミスを犯しはじめる。悪魔に魅入られたような運命の下降線を辿ることになる。かってジョセフィーヌは天使のようなつきをナポレオンにもたらしたというのに。1814年ナポレオンの失脚によりフランス摂政となる。フォンテヌブロー条約で1816年〜1831年にわたってパルマ女公妃の称号を受けた。ナポレオンとの籍も抜いた。ハプスブルク家によって母と子は強引にオーストリアに連れ戻された。老獪な宰相メ−テルニヒの差し金でマリーの傍には女たらしのナイペルク伯爵が置かれた。彼はよくマリー皇后をお慰めしたのでやがて二人の間には沢山の子供が出来た。マリーはその後1834年、フランスの外交官ボンベル伯と再婚。二度とナポレオンに会うことはなかった。皇帝の死後遺体の引き取りを拒否、デスマスクは渋々受け取ったがまもなく子供たちのおもちゃになった。
ローマ王
1811年〜1832年
3月12日皇太子誕生は101発の礼砲で祝われた。その轟音はナポレオン王朝の完成と凋落への始まりの合図でもあった。ローマ王はその生涯の殆どをシェーンブルグ宮殿で過ごした。ローマ王ライヒシュタット公は21歳で結核で死んだ。ナポレオンの後継者になることはなかった。彼は生涯父を尊敬し母に対し『偉大な父に母はふさわしくなかった』と責めた。メキシコで暗殺されたマキシミリアンは彼の私生児と言われている。
 デジレクラリー 1777年〜 1860年
マルセイユの裕福な家庭の娘。1792年殆ど無一文でボナパルト家がマルセイユに移住後ナポレオンの兄ジョゼフとデジレの姉マリーナが結婚。デジレもナポレオンの婚約。ナポレオンがジョゼフィーヌと結婚したため、ナポレオンのライバルだった粗野な軍人ベルナドットと結婚する。ベルナドットがスウェーデン国王に就任。ナポレオンの近臣をして「野に翼を付けた虎を放すようなものだ」と危惧された。1812年ロシアがフランスに対して反旗を翻すとベルナドットのスウェーデンもこれに同調。ナポレオンの帝国を崩壊させるきっかけとなった。ナポレオン王朝は全てその地位を失ってしまった。だがベルナドットとデジレの子孫の血統はスウェーデン及び、ノルウェー王室として今に続く。彼女はナポレオンに未練を残していたようだ。純粋無垢な女性だが、ジョゼフィーヌの持つ華やかさに欠けている。
ナポレオンの家族 ←続く

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