ランスでのレオナルド・フジタ


藤田嗣治
1886年 陸軍軍医藤田嗣章の末子として東京に生まれた。1910年に東京 美術学校西洋画科を卒業。文展に3年連続して落選。1913年 26歳の時、留学生としてパリに渡る。翌年勃発した第一次世界大戦の間も ヨーロッパに残留。油彩画ながらにじみぼかしの技法を用いて描かれた彼の作品は、1920年代パリで受け入れられサロン・ドートンヌなどのサロンで目立つ存在 となった。エコール・ド・パリの作家として名声を得る。彼は口ひげをMの字に刈り込み無頼な生活を送るが日本画の手法を取り入れて作り上げた乳白色のマチエール,そこに面相筆の流れるような黒で輪郭をとった描写。1931年 、アメリカ・メキシコ等を旅行し帰国。日本各地で大画面を描き始めた。秋田で制作した長さ20メートルに及ぶ大壁画、「秋田年中行事 太平山三吉神社祭礼の 図」は有名。戦争中戦争画を描いた事で日本画壇としっくりいかなくなり再び渡仏。1955年にフランス国籍を取得。
チャペル藤田
1959年藤田嗣治 はランスに親友ルネ・ラルー(シャンパンメーカーG.Hマム社社長)を訪ねた。その折ノートルダム大聖堂の余りの美しさに感銘を受けその場でカトリックに改宗することを決意。名前もレオナール・ フジタに改めた。
ノートルダム大聖堂の洗礼
レオナルドダヴィンチから名をとった。洗礼親はルネ・ラルー。二人の友情が形となったのがチャペルフジタである。内部はフジタ自身によるフレスコ画。人類愛をテーマに広島の原爆のテーマでステンドグラス、そして葡萄を持ったキリストと幼子イエズスを抱きシャンパンの樽に座る聖母を壁画に描いている。フレスコ画を埋め尽くしたとき藤田は既に80才になっていた。一度描いたら修正の効かぬフレスコ画を僅か3ヶ月で描きあげた。ランス市街地の北マム社の斜め前。1968年 入院先のスイスチューリッヒの病院にてガンのため没。
Cordon rose
その名もマム社らしい愛くるしい「コルドン・ロゼ」。
このロゼの肩ラベルには、バラの絵が入って
藤田嗣治が描いた「ラ・プチ・フィーユ・ア・ラ・ロゼ(バラの花と女の子)」という作品からモチーフをとったもの。
このボトルがエリゼ宮に初めて登場した時、藤田のサインをもらうために、招待客は空ボトルを欲しがったとか。泡も細かく淡いピンクのシャンパンはエレガントな雰囲気。
ピカソをして天才といわしめたレオナルド藤田。この絵の乳白色の肌極細の日本の筆を使う技法。

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